話 生徒会誕生



 コツコツコツ……。足音が廊下に響き渡る。暗い廊下に浮かびあがる、女の影。
 彼女の足は、一つのドアの前で止まった。中の明かりがドアの隙間からもれ、彼女の足下を照らしだしている。
 女の口許に笑みが浮かんだ。ドアのむこうに人の気配を感じたからだ。
 彼女はそっとノブに手をかけると、音もたてずに回した。手にうっすらと汗がにじむ。注意深くドアを押し開けると、彼女は部屋の中に素早く体を滑り込ませた。静かに後ろ手でドアを閉める。
 部屋の中の人物は、一向に気付く様子もない。
 女は満足げに微笑んだ。気配を押し殺すことにかけては、彼女は絶大の自信があった。それは、その自信からきた笑いだった。
 相変わらずこちらに背を向けている人物に狙いを定めると、彼女は跳んだ。その距離、およそ2メートル。
 距離は別に大した問題ではない。重要なのは、彼女が一連の動作の間にことりとも音をたてなかったことだ。
 着地点は、部屋の中央の、男の椅子の真後ろ。計算通りだ。
 彼女はその結果に満足しながら、胸ポケットに手をやった。そこにさしてある愛用のシャープペンシルを抜き取り、しっかりと握りしめると、目の前の男の剥き出しの首筋にぴたりと突きつける。
 このシャープペンシルには、鋼鉄の針が仕込んである。盆の窪にあてたそれを彼女がノックすれば、男はおそらくひとたまりもないだろう。
 彼女は一瞬勝ち誇ったような顔をした。男の命が、もはや自分の意のままであると思ったからだ。しかし、それはすぐにぎくりとした表情に変わる。
 何も気づいていなかった筈の男の左手に握られた万年筆が、自分の左胸ぎりぎりのところにあるのを、彼女は見た。しかも、その切っ先は、万年筆というよりも、むしろナイフと呼ぶのがふさわしいくらい尖っていた。
 瞬間、その場に張り詰めた空気が漂う。
 ……しばしの沈黙の後、男が先に口を開いた。
「生徒会室へ、ようこそ。心から歓迎するよ」
「素敵なお出迎え、ありがとう」
 二人とも、今はまったく落ち着いていた。余裕すらうかがえるほどだ。
「相変わらず、腕は確かだな」
「あなたも、腕はおちていないようね」
 二人は同時に自分の武器を相手から離し、元の場所にしまいこんだ。途端に、雰囲気が和やかになる。
 男が笑いながら振り向いた。
「で? 一体何の用なんだ?」
 女は溜め息をつきながら答える。
「何の用はないでしょう、せっかく取材に来たっていうのに」
「ほお、新聞部部長自ら取材とは、大したもんだな」
「そりゃ、そうよ。うちの学校じゃ、生徒会長の決定ってのは一番のニュースなんだから」
 男は肩をすくめた。
「早速かぎつけたのか」
「もちろんよ」
 女は自信たっぷりに微笑んだ。さも得意げに、胸を張る。
「早耳じゃなきゃ、新聞部員はつとまりません」
 そこまで言って、彼女は顔をしかめた。
「しっかし、ひどいとこよね、ここも。こんなに薄暗くって。あーあ、せめてカーテンくらいあけときなさいよ」
 言うなり、彼女は窓に近寄り、さっとカーテンを脇へ押しやった。と、まばゆい光が部屋いっぱいに射し込む。
 陽射しを浴び、彼女の肩へ垂らした髪がつやつやと輝き始める。
 彼女の名は、御園生朝野(みそのお・あさの)。今月高二になったばかり。ぱっちりとした瞳にすっと通った鼻筋。唇の形も品良く整っており、美人の部類にはいるほうだ。スタイルも、まあ良いと言えるだろう。
 一方、男の方は進藤良維(しんどう・りょうい)。同じく高二。男にしてはまつげも長く、全体的に整った顔立ち。髪はやや茶色っぽいが、そんなに目立つほどではない。体格はわりとがっしりしていて、そのため顔のわりに女性的には見えない。
 良維はつかつかとドアのそばへ歩み寄ると、電気を消した。そして、また元の場所に戻り、椅子に腰掛ける。
「それで?」
 朝野は良維の動きを目で追いながら尋ねた。
「前の会長さんたちは?」
「後のことは全部俺に任せて、姿を消した」
 言いながら、彼は冬でもないのにマフラーを首に巻きつけた。良維は、人前で滅多にマフラーをはずすことがない。
「あらまぁ」
 呆れた口調で朝野は言った。
「無責任な先輩方だこと」
「ま、しょうがないさ。そういう人たちなんだから」
「まぁね」
 そこで彼女はふっと表情を緩めた。近くにあった椅子に腰をおろすと、くつろいだ様子で髪を後ろへかきやる。
 そうして黙っていると、二人はなかなか似合いの美男美女だ。
「でも」
 朝野が少し首を傾げる。
「良維が生徒会長になるなんて、思ってもみなかったわ。ね、どうして?」
 良維は笑っているだけで、答えない。
「だって、前はずっと『隠密生徒会に入るんだー』って息巻いてたじゃない。それが、いきなりまったく反対の立場の生徒会長さんだもんねー。驚いちゃった」
「まあ、いろいろ事情があるんだよ」
 良維がいいわけがましく言った。
「去年の後期、無理矢理に経理やらされただろ。んで、今回会長のなりてがないってんで、拝み倒されたんだよ。そうまで言われちゃ、どうしようもないもんな」
「でもさー、せっかくそんないい腕してるのに、隠密生徒会に入らないってのはもったいないわよ」
 朝野はそこまで言って、何かに気づいたように顔を上げた。
「隠密生徒会っていえば、あれも最近行動おこさないわね。なんでだろ」
「さあな。あっちも代替わりの時期なんだろ」
「ふーん。でも、何かやってくれないと、ニュースがなくて困るのよね」
 苦笑する、良維。
「おいおい、隠密生徒会は単なるネタかよ」
「そうよ」
 ずる。軽く言ってのける朝野に、良維はひっくりかえりそうになる。
「だって、校内新聞に『隠密生徒会、またも動く! 悪を叩きのめす影の組織、彼らは一体何者?』なんて記事が載ってごらんなさいよ、それだけであっという間に売り切れだわ。みんな興味があるのよ。なんたって、正体不明ってとこがいいのよね。だから、あたしたちとしては、彼らにたっくさん事件を起こしてもらった方が助かるの。なんせ」
 ちらっと良維に目をやる。
「うちは部費が少ないもんですから」
 こほんと良維が咳払いする。
「それはどこも同じ」
「ねーえ」
 朝野は良維ににじりよる。
「幼なじみのよしみでさ、部費増やしてくれない?」
「だーめ」
 彼はきっぱりと言った。それでも朝野はあきらめない。
「どーして? 長いつきあいじゃないの、あたしたち」
「それとこれとは別問題」
 言われて朝野は唇を尖らせた。
「ちぇ。良維のけちんぼ。こうなったら、隠密生徒会が動くのを待つしかないわね」
 そうつぶやくと、朝野は良維に改めて向き直った。
「ところで、他の役員は決まったの?」
「いや、まだだ」
 朝野が顔をしかめた。
「えらくのんきねー」
「書記は一応目をつけてあるんだけどな」
「へえ」
 彼女は少しやわらかい口調になって言った。
「でも、大変ね。会長が全部人集めしなきゃならないなんて」
「ああ」
 良維はうなずいて一つためいきをついた。
「けど、この学校の昔からの決まりだからな。それに、ちゃんとした理由があるんだし」
「え?」
 朝野は思わず身を乗り出した。
「理由って、何それ。初耳だわ」
 良維の言葉を聞いて、持ち前の好奇心が首をもたげていた。朝野は、なんとしてもその理由とやらを聞き出そうと思った。
 良維の方はというと、口をすべらせて余計なことを言ってしまったことに気づいて、慌てていた。
「え、いや、そんな大したことじゃないんだ」
「嘘。だったら、なんでそんなに慌てるのよ?」
 駄目だ、隠しきれない、と良維は思った。朝野のしつこさは、長年のつきあいですでに良く知っていたのだ。どうしようと考えていると、ふと妙案が浮かんだ。
 良維は、朝野の顔を見て、にやっと笑った。突然のことに相手がひるんだすきに、声をひそめて話しかける。
「朝野、おまえ、その理由知りたくないか」
「……知りたいに決まってるじゃない」
 わけがわからず朝野は不安げに、それでも素直に答える。
「そうか、知りたいか」
「だからそれがどうしたのよ」
 良維は意味ありげに微笑んだ。
「教えてやってもいいんだぜ」
「本当?」
 朝野の顔が一瞬にして輝く。それを見て、良維は大きくうなずいた。
「ただし、一つ条件がある」
 途端に朝野の表情がくもる。
「やっぱりね。ただで教えてくれるわけないもんね」
「どうする? 条件をのむか?」
 良維はあくまで挑戦的だ。
「そりゃあ……知りたいから条件はのむけど……あー、なぁんか嫌な予感がするな……」
「多分、その予感当たってるぞ」
「あちゃ」
 頭を抱えると、朝野は半ばやけくそ気味に叫んだ。
「条件って何よっ!」
「ふっふっふの、副会長になること」
「……やっぱりね……だろうと思ってた」
 良維は愛想良く笑った。
「で? どうする?」
「うー……副会長は嫌だけどさ、でもやっぱり、その理由っての聞きたいからなー……」
「さぁさぁ。二つに一つ。さぁどっち」
 少しの間考えこんでいた朝野は、やがて意を決したように顔を上げて言った。
「わかった。副会長やる。その代わり、理由教えてよ」
「いいとも。でも、あまりでかい声で言えないからな。ちょっと耳かせ」
 言われた通り、彼女は良維の方に耳をやった。良維がその耳に小さな声で耳打ちする。
 最初は黙って聞いていた朝野だったが、聞き終わる頃になるとほとんど半信半疑で、良維の説明が終わると同時に彼女は声を上げた。
「えー?」
 その説明というのは、要約するとこうだった。
 正規の生徒会と隠密生徒会は、実は代々同一の物であり、構成するメンバーもまったくの同一人物である。そのため、生徒会役員の選出は、前会長の指名した新会長その人により行われる。選出の基準は、凄腕の猛者であること、また、一見してそうとはわからない者であることが重要になる。このことは一切一般生徒に知られてはならず、生徒会関係者のみの知る秘密でなくてはならない。この鉄則を破った者は、たとえどんな理由があるにせよ、それなりの処分をうけねばならない。隠密生徒会は、あくまで闇の存在でなくてはならない──
 良維は立ち上がり、もったいぶった様子で話を続けた。
「とにかく、役員になるには、冷静な判断力、鋭い洞察力、なにものにも左右されない強固な意志、それに、深い知性の持ち主であることが必要なんだ。それを見極めるためには、会長自らによるつぶさな観察がいるんだな。だから、時間も手間もかかる。だけど、苦労を惜しまずに観察を続けることによって、優れた生徒会が作られる、というわけだ」
「それはわかるけど」
 落ち着きを取り戻した朝野は、彼に反論した。どうやら、何か腑に落ちないようだ。
「どうして生徒会イコール隠密生徒会だなんてことになってるのよ? 一応さ、隠密生徒会ってのは、生徒会で扱いきれない事件を解決するためにあるわけじゃない。でも、その二つが同じものだとしたら、自分の手に負えない事を自分の手でさばくってことになるわよ。変じゃない」
「それが、そうでもないんだな」
 良維が間髪を入れず答える。
「手に負えないって言ってもな、それは力が足りないとかってんじゃなくて、表だって生徒会が動くとやばいってことなんだよ。だから、そのやばい仕事をするために、正体不明の『隠密生徒会』っていう隠れ蓑が必要になったんだな、生徒会に。まあ、その二つを別のものにしても良かったんだろうけど……ただな、隠密生徒会ができた当初も、今と同じで、どうしても人手不足だったんだよ。生徒会なんて名のつくものをやりたがる人間ってのは、そうはいない。だろ?」
 朝野は、自分自身も常日頃、生徒会役員なんかやりたくないと考えていたのを思いだし、うなずいた。
「だから、人を集めようとしても、一つの生徒会の分しか集まらない。両方の生徒会の構成員を別々に集めるってのは、まず不可能だ。そういう理由から、隠密生徒会は、正規の生徒会の裏の顔となったわけだ」
「ふうん……」
 わかったようなわからないような複雑な面持ちで朝野がつぶやいた。
「なんだ、感動の薄いやつだな。もう少し驚けよ」
 ちょっと不満そうに言って、良維は再び椅子に腰をおろす。
「そんなこと言ったって」
 朝野は口を尖らせて、ふてくされたような表情をした。
「あまりにも安易というか、しょーもないというか……なぁんか情けなくない?」
「まぁ、そう言えないこともない」
 もっともらしく良維がうなずいた。
 ……言えないこともない、ですって? それどころか、情けないそのものじゃない。とは思いつつも口には出さず、朝野は痛むこめかみを押さえるのだった。
 けれどその時、彼女の脳裏を一つの考えがよぎっていった。
 良維は今、生徒会が隠密生徒会そのものだと言った。ということは。前の会長さんたちも……隠密生徒会のメンバーだったっていうこと? そうなの?
「うそぉ」
 朝野がどこか気の抜けた声をあげた。
 それを聞いて、半ばむっとした表情で良維が彼女に顔を向ける。
「うそぉってのはなんなんだよ、今頃になって。驚くんなら、もっとタイミング良く驚けよ」
「だってだって!」
 朝野は、頭の中で前生徒会役員たちの姿を思い描いた。会長、副会長、書記……いずれもどこかひょうひょうとしていて、とても強者ぞろいとは言いがたい。
 ためいきをつきつつ、彼女は首をゆっくりと左右に振った。
「とても信じられないわ。だって、前の役員さんたちってば、よく言えばおっとり、悪く言えばどこか抜けてるとしか思えなかったもの。ぬーぼーっとしててさ。何やったって肝腎なところでミスしてたじゃない? それにひきかえ、隠密生徒会はいつだって手際が良くて、スマートでかっこよかったわ。その二つが同一のもの、だなんて……信じられるもんですか」
「だから」
 良維が大儀そうに口を開く。
「さっき言ったろーが。『一見してそうとはわからない者であること』って。先輩たちは、その点から言えば至極申し分のない人たちだった。まぁ、少々申し分なさすぎるきらいはあったが」
「うー……」
 知らず知らずのうちに、朝野はうなっていた。さすがに納得せざるをえなかったからだ。呆れと感心の中間の表情がその顔に浮かぶ。
「……それじゃ、あの人たちはかなりの役者だったわけだ……うまくだまされたもんだわ」
 あーあ、とそのまま椅子に背をもたせかける。天井をしばらくにらみつけてから、朝野はふーっと細く息を吐いた。
「ん? どうした。ためいきなんかついたりして」
 楽しそうに良維が朝野を見る。
「んー……なんかねー、自信なくなってきちゃった。あたし、とてもじゃないけど、ああまではできないわよ」
 途端、良維は心得たとばかり口許をほころばせた。
「副会長ひきうけたの後悔してるってわけか」
「まぁね。そんなとこ」
「大丈夫。朝野だったらやれるって」
 笑いながら良維がそう言った。朝野は、え、と首をおこす。
「……どうして?」
「朝野は昔っから猫かぶるのだけはうまいから」
 どうせそんなところだろうと予想はしていたものの、はっきりそう言われては、さすがに彼女もむっとする。
「人聞きの悪いこと言わないで。それじゃ、まるで他に取り柄のない性悪女みたいじゃないの」
「いや、別にけなしてるつもりはないんだぞ」
「十分けなしてるわよ。十分すぎるくらいだわ」
 朝野はふんっとふくれてしまった。恨みがましい目で良維をにらみつける。
「そういう良維こそ、そんな意地悪なところは、昔っから変わらないわね」
「意地悪って……」
 鼻の頭をかきつつ、良維が困ったように眉根を寄せるのが見て取れた。
「そんなつもりはないんだけどな」
「つもりはなくってもね、とにかく良維は意地悪なのよ」
 強い調子で言われ、良維は返す言葉もないまま椅子から立ち上がった。少なからず、ショックを受けているようである。
 彼のそんな後ろ姿を見て、朝野も少しばかり動揺した。良維の背中がやけに小さく見えたから。
 ……少し言いすぎたかな。意地悪、だなんて。
 朝野は心の中で深く反省し始めていた。元来素直な性格なので、自分の非を認めるのは早いのだ。
 良維に謝らなくっちゃ。そうよ、謝るのよ。
 子供の頃から、悪いことをしたと思ったらすぐに謝るようしつけられている朝野は、すぐにそこに考えがたどりついた。根が単純な彼女は、どうやって謝ろう、などとは考えもせず、立ち上がりざまいきなり良維に向けて手を伸ばす。
「ぐえ」
 ひしゃげたような声が、良維の喉からもれた。それもそのはず、朝野の手が彼のマフラーをむんずと握りしめていたのだから。
「なななんだよ」
 あまりに唐突な彼女の行動に、思わずどもりながら良維は振り返った。すると、そこには真剣な表情の朝野が立っていた。その顔があまりに険しいので、彼はおそるおそる尋ねてみる。
「まだ怒ってるのか?」
 彼のその言葉が終わらないうちに、朝野が口を開いた。
「ごめんね、意地悪だなんて言ったりして」
「……は?」
 良維はきょとんとしている。無理もない。朝野の行動は、いつもどこか突飛なのだ。
 そんなことは一切気にもとめず、彼女は続ける。
「あたし、良維のこと意地悪だなんて、本当は思ってないわよ。良維が優しい人だってこと、よく知ってるもの。それに、そのマフラーだって、あたしのせいでずっと巻いてなきゃいけなくなったっていうのに、文句一つ言ったことないし。今日だって、あたしが狙いやすいように、わざとマフラー外しててくれたでしょ。わかってるのよ。なのに……そんな良維に意地悪、なんて言っちゃって、本当に申し訳ないと思ってるの」
 ここに至って、ようやく良維ははっとした。
「もしかして、おまえ謝ってるのか」
 朝野が驚いたように顔をあげる。
「そうよ。一体なんだと思ってたの」
「いや、いきなり首を絞めるから、てっきりまだ怒ってるのかとばかり」
「首って……あ、ごめん」
 慌ててマフラーの端をつかんでいた手を離す。
「大丈夫? つい思いっきり引っぱっちゃったけど」
「ああ、平気平気。なんともないよ」
 心配そうな朝野に明るく言ってみせて、良維はマフラーを結び直した。
「ごめんね、本当に」
 朝野はまだ謝っている。良維の首のことになると、彼女はひどく神経質になる。
「あざになんかなってない?」
「なってない、なってない」
「本当に?」
 くすっと良維が笑う。
「朝野は本当に心配性なんだな。大丈夫だってば。ほら」
 と、マフラーをほどいて、首筋を朝野に見せた。
「な、なんともないだろ」
「うん……」
 それでも、朝野は表情を曇らせたままだ。
「おい、どうしたんだ?」
 申し訳なさそうにうつむく朝野に、良維はそう問いかけた。
 くぐもった声で朝野がつぶやく。
「その傷……」
「ん?」
「さっきは気づかなかったけど、その首の後ろの傷、まだ残ってるのね」
 それを聞いた途端、良維の顔色が変わった。手早くマフラーを結ぶと、彼は言いきかせるような口調で朝野に告げた。
「何度も言ったろ、これは朝野のせいなんかじゃないって。あれは、事故だったんだ」
「事故って……あれは」
 それ以上朝野に言わせまいとして、良維は続けた。
「第一、俺は男なんだから、傷の一つや二つあったって構やしないんだよ」
 嘘だとでも言いたげに朝野は顔をあげた。それに気づいて、良維が先手を取って言う。
「嘘じゃないぞ。それに、こんな傷、じーっと見なきゃ誰も気づかないもんなんだから」
「じゃあ、どうしていつもマフラーで隠してるの?」
「月光仮面のファンだから……なんてな。本当は、願をかけてるんだ」
「願を……?」
 朝野が信じようか信じまいか迷いながら口をはさんだ。
「ああ」
 良維は力強くうなずいた。
「高校を卒業するまで、ずっとこうして……マフラーを取らずに、誰にもこの傷のことを知られずにすんだら」
「知られずにすんだら……どうなるの?」
 口を開きかけて、良維ははっと口をつぐみ、にやりと笑う。
「さすが、新聞部の部長、誘導尋問がうまいな。悪いけど、それは言えない。言っちまったら、願掛けの意味がなくなるだろ」
「あ、そっか……ごめん」
 そう言いつつ、なんだか今日は謝ってばかり、と朝野は思った。
「さ、もうこの話はやめよう。こんな話するために来たんじゃないだろ」
「そうね」
 微笑みながら、朝野は考えていた。
 さっき良維が言ったこと──願をかけてるって、あれは本当かしら。半分は、本当かもしれない。でも、残りの半分はきっと嘘。あのマフラーは、あの怪我を──あたしが良維に怪我をさせたって事実を隠すためのものだってことを、あたしは知ってる。良維は、あたしをかばってくれてるのよね。
 そうよ、あの傷は──朝野はその時の情景を思いだしていた──あたしと良維がまだ小学生だった頃、負ったもの。あの日の学校の帰り道、別の道から帰ろうと言い出したのは、あたしの方だった。それで、あの工事現場のそばを通りかかったのよ。取り壊し作業中に飛んできたコンクリートの破片からあたしをかばって、良維は首に怪我をした。
 あとでお母さんに、どうしてあんな危ないところへ行ったのかって叱られたときも、良維は、自分が行こうって言ったんだって言い張って、あたしをかばってくれた。
 ……良維は、あの頃から優しかった。そして、今も。
 そこで、朝野は思い直してふっと微笑んだ。
 でも……そんなの、あたしの思い上がりかもしれない。良維は本当に願をかけてるだけなのかもしれないわ。本当はどっちなのか、なんて、あたしにはわからない。あたしのためだったらいいなって願望から、自分に都合良く解釈してるだけ、なのかもね。
 でも。確かなことが、ひとつだけ。良維が優しいっていうこと。これだけは、確か。だからこそ、あたしは良維のこと……。
 朝野は良維にちらっと目を走らせた。彼は、朝野の思いなど気づかずに、奥の棚から書類を探している。
 朝野は、そっと目を細めた。
 きっと、良維は知らない。あたしがこんなふうに思ってるってこと。その方がいいわ。幼なじみの朝野ちゃん、それで十分。それでも……そうね、あたしも願でもかけてみようかな。もしも、一年間立派に副会長として良維のお手伝いをすることができたら……そのときは、この思いを告白してみてもいい。
 ねえ、良維。お互いに、願いが叶うといいわね。
 と、やっと目当ての書類を見つけだしたらしい良維が、彼女を手招きした。
「朝野、ちょっと来いよ」
「はぁい」
 朝野は、いそいそと良維の呼ぶ方へと寄っていった。

「──高崎藤貴(たかさき・ふじき)、香魚川(あゆかわ)高校放送部部長、二年生。どうやら、武術にかなり秀でているらしい」
 良維は、座っている朝野に一葉の写真を渡した。
「これが、彼女の写真だ。鋭い目つき、気の強そうな表情……いかにも腕が立ちそうだろ。ま、本人に会ってみないことにははっきりしないんだが」
「ふぅん……」
 朝野はその写真の人物にじっと目を凝らした。
 その人物、高崎藤貴は、写真で見る限り、どちらかというと男性的な顔立ちで、その分意志が強そうだった。良維の言うとおり、確かに目つきが鋭く、はっきりした目鼻立ちに眉や口許もきりりとしていて、あごのラインもなかなかシャープと、ひとふりの細い抜き身の太刀を思わせる。いかにも、切れ者という感じだ。
「で、この人を書記にって考えてるのね、良維は」
 写真から目を離さず、朝野が聞いた。
「ああ。朝野はどう思う」
「どうって……あたしの決めることじゃないじゃない?」
「それはそうだけどな」
 手近にあった椅子に腰をおろして、良維は机に肘をついた。
「これから一緒にやっていく仲間になるんだし、一応意見も聞いておかないとな」
「ま、それもそうね」
 素直に朝野がうなずくと、良維は顔をのぞきこむようにして尋ねる。
「で、どうだ?」
「そうね……」
 朝野は少し考えてから、思った通りを口にした。
「かなり強そうだって言うのには異論はないわ。この人だったら、きっとうまくやれると思う。でも……ただね、いかにも強そうな外見じゃない? 一見してそうとはわからない、ってのには反するわね。でもまぁ、本人に直接会ってみないことには、はっきりしたことは言えないと思うのよ」
「そうだな」
 良維が同意してうなずくのを見て、朝野は内心少し嬉しかったが、そんな素振りも見せず、すまして言う。
「それで、どうするの」
「ああ……じゃ、これから会いに行ってみるか」
 言うなり良維が立ち上がったので、朝野はちょっと驚いた。
「行くって、今すぐ?」
「あ、都合悪いのか」
「ううん、そうじゃないけど。急な話だから、びっくりしたのよ」
 朝野もゆっくり立ち上がり、椅子を元の位置に戻した。
「じゃ、行くか」
 朝野は良維の後に従った。一応鍵をかけてから生徒会室をあとにすると、二人は放送室を目指して歩き始めた。
「でもね」
 少し行ったところで、朝野が良維を見上げて言った。
「あんな人が放送部の部長さんだなんて、ちょっと意外じゃない?」
「まぁな。聞くところによると、あの迫力のあるところをかわれてスカウトされたらしい。ああいう部長がいると、予算の交渉なんかでもはったりがきくだろ」
「ふーん、そうなの」
 良維は続けて言う。
「結構あちこち顔を出してるらしいぞ。弓道部の宣伝ポスターにも出てたし」
「あ、そういえば。道理で、どこかで見た顔だと思った。あれ、かなり話題になってたらしいわね。一年の女子の間で」
 などと話している間に、二人は放送室に着いた。良維がドアをノックする。
「はーい」
 と声がして、一人の女の子がドアの隙間から顔を出した。
「なにかご用ですか?」
「部長さん、いるかな。呼んで欲しいんだけど」
「部長ですか、いますよ。ちょっと待ってください」
 女の子は顔を引っ込めた。声だけが聞こえてくる。
「部長、お客さんですよ」
「客って、どんな?」
「んーと……マフラーした人と、女の人」
 数秒して、高崎藤貴が姿を現した。
 朝野は、一目見て思わず圧倒されてしまった。なにせ、写真と同じように迫力があって、その上背が高いのだ。良維も高い方だが、それに追いつくくらいの高さだ。
「わたしに何か?」
 アルトの声がそう言った。良維がすっと彼女に近づく。
「高崎藤貴さん、だね」
「そうですが、あなた方は」
「俺は新生徒会長の進藤良維。こっちは」
 と、良維が朝野を示した。
「副会長の、御園生朝野」
 鋭い目が朝野に向けられ、彼女は一瞬ぎょっとした。
「その方々が、わたしに何の御用件です」
 藤貴がさっと髪をかきやった。腰よりも長く伸ばした髪を無造作に束ねていて、なんというか、動作のひとつひとつが女を感じさせない。男らしい、というのとはまた違うのだが。そう、中性的、とでも言おうか。
「ああ、実は、君に書記になってもらいたくてね」
「書記? わたしが?」
「そう」
 うなずくと、良維は周囲に素早く目を走らせ、何人かの生徒がうろついているのを見て取った。
「ここじゃまずい。場所を移そう」
 そして三人は、人気の少ない廊下の端に移動した。そこなら、誰かに話を聞かれる心配はない。
 再び話を切りだしたのは、もちろん良維だった。
「高崎くん、君も隠密生徒会のことは知ってるだろう」
「あ、ああ。もちろん知ってます」
 こころなしか声をうわずらせて、藤貴が答えた。良維は声をひそめる。
「実は、あれと、生徒会ってのは同じものでね。だから、生徒会役員は腕のたつものを揃えなくちゃならない。……で、君にも役員になって欲しいんだ。見たところ、かなりの腕利きのようだし」
 藤貴が黙り込むのを見て、朝野と良維は顔を見合わせた。彼女があまり乗り気でないように思えたからだ。意を決して、朝野が話しかけてみる。
「高崎さん、なにも無理にとは言わないわ。嫌なら、断ったって構わないんだし。ただし、今聞いたことは他言無用よ」
「ことわる?」
 藤貴はさっと顔をあげた。その表情は、さっきと比べるとずっと柔らかだった。
「ことわるだなんて、そんなもったいないことしませんよ」
 彼女はそう言うと、すっと姿勢を正した。口許には笑みが浮かぶ。
「高崎藤貴、喜んでお引き受けいたします」
 それを聞いて、良維は朝野に嬉しそうに微笑みかけた。
「これで三役は決まったな」
「うん。すんなり決まって良かったわね。やれやれじゃない」
 良維に微笑みかえしつつ、朝野は内心ほっとしていた。というのも、藤貴が最初思っていたほどきつい人間ではなさそうだからだ。まじめな顔をしているときは確かに迫力があるが、笑ったところなんかはぐんと雰囲気も柔らかくて優しげな感じだ。
 この人となら、うまくやっていけそうだわ。いい人みたいだしね。
 そんなふうに思っていると、突如として藤貴がなにやら一人でぶつぶつつぶやき始めたので、朝野は驚いて彼女に目を向けた。良維も同じだ。
「思えば、我が高崎家は、今まで惨めな境遇におかれており申した。江戸時代、剣術指南役としてお仕えしていた藩主様が将軍のお怒りをかい、藩おとりつぶしの憂き目にあって、それ以来、長きにわたる浪人暮らし。やがて御維新の波にもまれ、昭和の戦火をかいくぐり、それでもいつか我等の時は来ると信じ、武術にはげんだその甲斐あって、ようやく再びこのような大役にお取り立ていただくことができました。この高崎藤貴、一族郎党になりかわり、厚く御礼申し上げまする」
 朝野はこのあたりまで聞いて、ぎょっとして良維の顔を見た。彼の方も予想外の展開に、驚きの表情を隠しきれずにいる。
「なっ、なんなの、この人」
 朝野は藤貴に聞こえないよう、ごくごく小さな声で良維に話しかけた。
「えらく真剣じゃない。どうなってるの?」
「さぁ……そんなこと俺に聞かれたって」
「しっ。まだ続いてるみたいよ」
 藤貴が時代劇めいた大仰な身振りで続けている様子に、再び二人は目を戻した。
「まこと、身に余る光栄。このうえは、わたくしこと高崎藤貴、あなたさまを主とし、一生お仕えする所存にございます。どうか末永くお使いくださいませ」
 言い終わるや否や、藤貴は良維の足下にひざまずいた。
「ちょっとっ、なんなのよ、この時代錯誤の極致としかいいようのない科白はっ」
「おい、ちょっと待ってくれ、なんで俺が主になっちまうんだよ! 俺はただの生徒会長だぞ。一生仕える、だなんて冗談じゃない!」
「あたしに言わないで、言うんならこの人に言って。あぁもう、どうなってるのよっ」
 すっかり頭が混乱しきってしまい、その結果として二人はアナクロニズムの前になすすべもなく立ちつくすのだった。
 そして、朝野は思った。こんなで本当に生徒会なんてやっていけるのかしら──。


話 ─終─

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