by.保篠



「いやっ!」
 わたしの肩をめがけて伸びてきた腕を振り払い、壁を支えにしながらやっとのことで立ち上がる。
 恐怖でがくがくと震える足を引きずりながら、這うようにして階段を上る。
「助けて……助けて、真紀──」
 うわごとのように、何度も何度も繰り返し真紀の名を呼ぶ。
 真紀から逃げているはずなのに、なぜわたしは真紀に救いを求めるのだろう。自分でもよくわからない。
 必死に走っているつもりなのに、足がもつれてなかなか前に進めない。気持ちばかりが焦り、何度も転びそうになる。
 それでも、なんとか踊り場までたどり着き、わたしはちらりと背後に目を走らせた。
 無数の白い手は、執拗にわたしを追ってきていた。じりじりと、けれど確実に、わたしとの距離を縮めている。
 暗い階段にぼんやりと浮かび上がる無数の白い腕は、まるで押し寄せる波の、波頭のように、わたしを手招いている。
 急いで体の向きを変え、二階へと向かう。
「あっ」
 なにかに足が引っかかり、前につんのめる。あわてて両手をついて、体を支える。その拍子に、靴が片方脱げ、どこかへいってしまった。
 振り返る。白い腕は、もうわたしの足元まで迫っていた。あまりの恐ろしさに、声も出ない。
 階段の手すりにつかまり、どうにか体を起こす。転んだときにどこかにぶつけたのか、膝が痛んで力が入らない。
 と、そのとき、上体ががくんと後ろに傾いだ。一本の腕が、わたしの足を払ったのだ。
 支えを失ったわたしの体は、踊り場めがけて崩れ落ちた。ちょうど……あの日の真紀のように。
 
 真……紀──
 
 投げ出されたわたしの体は、次の瞬間床に激しく叩きつけられた。右肩から全身に鈍い痛みが走る。
 頭から落ちなかったのは、不幸中の幸いだったのだろうか。でも、同じことだ。体中が痛くて苦しくて、わたしはもう動くことができないのだから。
 もう、だめ。もう逃げられない。
 
 獲物を手に入れた白い腕は、わたしの全身をなでまわす。わたしの足を、背中を、胸を、腕を、肩を、顔を、髪を、ぬめぬめとした感触が這い回る。触れられるたび、全身が粟立つのを感じる。
「真紀……」
 真紀の名前を呟きながら、わたしは泣いていた。泣くより他になかった。
 
「……まさみちゃんがいけないのよ。まさみちゃんが逃げようとするから。だから……」
 顔を上げると、真紀がそこにいた。白いワンピースの裾をひるがえしながら、真紀は立っていた。
「どうして逃げるの? どうして一緒にいてくれないの? ……約束したじゃない。ずっとそばにいるって、約束してくれたじゃない」
 そう言いながら、真紀は横たわったままのわたしの身体の上にふわりと座り込んだ。
「真……紀……」
「見て」
 真紀がワンピースの裾を両手でまくり上げた。そこには……何もなかった。真紀の両足があるべきその場所には、ただどこまでも冷たい闇が広がっていた。
 わたしは目をそらそうとする。でも、真紀はそれを許さない。
「だめよ、ちゃんと見て。……まさみちゃんのせいよ。まさみちゃんのせいで、わたしの足は……」
 真紀の体がずしりと重さを増した。胸が苦しい。息が詰まる。
「わたしの足をこんなにしておいて、わたしを見捨てるなんて許さない。わたしのことを忘れようだなんて、そんなこと……絶対に……ゆるさない」
 言葉の調子とはうらはらに、真紀は微笑んでいた。いつものやわらかな微笑み。
 真紀が体をかがめて手を伸ばし、わたしの頬をなでた。その凍るような冷たい感触に、ぞくりとする。でも──それはなんと甘美な感覚だったろう。
「まさみちゃん……あの時の約束を果たして。今度こそ、ずっと一緒にいよう……ね?」
 わたしの耳元に顔を寄せ、真紀が甘く囁く。まるで、恋を囁くかのように。
「一緒に来て……くれるでしょ……?」
 真紀の手が、わたしの鼻と口をそっと塞いだ。
 ……苦しい。息ができない。
 無数の白い腕に全身を押さえつけられて、真紀の手をふりほどくこともできずに、わたしはただ泣いていた。怖くて泣いているのか、それとも、苦しくて泣いているのか。自分でももうわからない。
 と、真紀の手に込められていた力が、ふっとゆるんだ。
「……雅水ちゃんは、本当に泣き虫ね」
 真紀の指が、わたしの涙をやさしくぬぐいとる。
 大きく息をするわたしの頬に、なにか冷たいものが滴り落ちてきた。
 何事かと見上げると、真紀は泣いていた。微笑みをうかべたまま、涙を流していた。
「真……っ!」
 真紀の名を呼ぼうとして、言いかけた言葉は途中で途切れた。
 真紀の両手が、わたしの頸を押さえつけたからだ。
「う……っ」
 華奢な体からは想像もつかないほどの力で、真紀はわたしの頸をぐいぐいと締めつける。その間にも、真紀は泣き続けていた。
「泣かないで。大丈夫だから。私がそばにいるから。だから……もう泣かないで。お願い。もう、泣かないで……」
 真紀の涙とわたしの涙が混じり合い、頬を冷たく濡らす。
 だんだんと目の前がぼやけてきた。これは涙のせい? それとも……意識が薄れかけているせいだろうか。
 
 ……真紀。ごめんね。わたしがあなたをひとりにしたから。だから……あなたはひとりで泣いていたの?
 もう、いいから。真紀がそう望むのなら、それで真紀の気がすむのなら、わたしはずっとそばにいるから。
 だから、もうひとりで泣かなくていい。
 わたしを、連れていって。真紀。あなたのいる所へ。
 わたしは、真紀に向かってそっと手を伸ばした。その手が、真紀の頬に触れかけた瞬間──。
 
「やめなさい!」
 階上から声が響いた。
「やめるんだ、藤井さん──雅水!」
 
 はっとして、目を見開く。そこに、真紀の姿はなかった。白い腕も、どこにも見あたらない。
 そのかわり──真紀よりもひとまわりくらい体の大きな少女が踊り場の隅に膝を抱えてしゃがみこんでいた。
 腕に力をこめて、上体を起こす。体のあちこちが悲鳴を上げる。でも、とりあえず大きなけがはないようだ。
 壁にもたれかかり、目の前の少女を観察する。
 年齢は……中学生ぐらいだろうか。身につけているのは、白い半袖のカットソーに空色のキュロットスカート。
 そこからすらりと伸びた四肢は擦り傷だらけで、ところどころ血がにじんでいる。見るからに痛々しい。
「……大丈夫?」
 うつむいていた少女が顔を上げた。その拍子に、彼女の服の胸元が赤黒く汚れているのが見てとれた。そして……彼女の顔。右の額から頬にかけて、黒っぽい汚れがついている。
 泥……? いや、ちがう。頬をつたって時折ぽたりと落ちる赤い雫。これは、血だ。
「あなた……怪我、してるの?」
 少女は、あわてて首を横に振る。その目には、明らかな怯えの色が浮かんでいた。
「すごい血よ。早く手当てしなきゃ」
 わたしの言葉にも、少女はただ頑なにかぶりを振るばかりだ。
 わたしは、傍らに落ちていた自分の鞄からハンカチを取り出した。
「ほら、こっちむいて」
 顔の血を拭おうとしてハンカチを持った手を伸ばすと、彼女はびくっと身を震わせた。
「……どうしたの?」
 少女は答えない。怯えた目をわたしに向け、小刻みに震えている。
 ……もしかして、わたしを恐れている──?
 彼女は、ふるふると首を横に振りながら、泣きそうな声でなにか言っている。
「……さい、……ご……なさ……」
 声が小さすぎて、よく聞き取れない。
「……え? 何……?」
「……ご、めんな……さい……、ごめ……なさい……」
 謝罪の言葉を何度も繰り返す彼女を、わたしは呆然と見つめていた。
 なにがなんだかわからなかった。彼女は何を謝っているのか。なぜこんなに怯えた目でわたしを見るのか。そして──そもそも、この子は一体誰なのか。
「ねえ。あなた、いったい──」
 わたしの言葉を最後まで聞かずに、少女はふらふらと立ち上がった。そして、わたしにくるりと背を向け駆け出そうとして──階段の途中にたたずむ人影に気づき、足を止めた。けれど、それもほんの一瞬のことで、彼女はすぐにその人影の傍らをすり抜け、階段を駆け上がっていってしまった。
 
 踊り場に取り残されたわたしは、薄暗い階段を見上げた。
 階段の中程から、誰かがゆっくりと下りてくる。踊り場をかろうじて照らしている、窓から射し込む月明かりも、階段の上部までは届かない。暗がりの中のその人影が誰であるか、見極めることは難しい。
 でも、わたしはそれが誰なのか知っていた。サンダルを引きずる足音。昔と変わらないその歩き方。
 ……先生。安河内先生だ。
「……久しぶりだね」
 そう言いながら、先生は階段の途中で立ち止まり、その場に腰を下ろした。
「先生……」
 立ち上がって階段を数段上り、わたしも先生の隣に座り込む。
 薄闇の中で見る先生の横顔は、いくらか老けてはいるものの、昔のままのように思えた。
「先生……どうして、ここに?」
「……子供達のことが気がかりでね。行ってしまう前に、どうしても様子を見ておきたかった。まさか、その姿を人に見られて、噂になるなんて思ってもみなかった」
 そこまで言って、先生はため息をついた。
「それも、今夜で最後だったのに。よりによって今日、君達と会ってしまうなんて……」
 先生は、眉根を寄せて黙り込む。
 どういう意味だろう。君達というのは、わたしと智紀のことだろうか。わたしたちは先生と会ってはいけなかったの? それとも、単にこんな形で会いたくなかったということだろうか。
 それより、先生には聞いておきたいことがあった。
「──先刻……真紀の所へ行こうとしたわたしを止めたの……先生でしょう? どうして行かせてくれなかったんですか……?」
「ああ……あれは真紀じゃないよ」
「えっ……?」
 思わず耳を疑う。
 そんなわけはない。あれは、どう見ても、真紀だった。
 華奢な体も、柔らかな微笑みも、優しい声も……わたしの記憶の中の真紀そのものだった。あれが、真紀以外のものであるはずがない。
「違うんだ。あれは……君と智紀が作り出した、真紀の幻なんだよ」
「……幻──? わたしと智紀が……?」
 ますますわけがわからない。わたしと智紀が、なぜ?
 わたしが作り出したというのならまだ話は分かる。真紀に会いたい、そんな気持ちが、幻を生みだしたのだと、そういうことなら理解はできる。でも……なぜ、そこに智紀が関わってくるのか。
「君達二人は……ある意味で共犯者なんだよ。だから……君は罪の意識から、真紀に詰られることを望み、智紀は罪の意識から逃れるために、君を責めようとした。そして、そんな君達の思いが、あの幻を作り上げた」
 ……先生の言うとおりだ。少なくとも、わたしに関しては。
 
 真紀は、一度もわたしを責めなかった。事故のときも、病室に見舞いに行ったときも。この町を離れると告げたときでさえ、一言も責めたりしなかった。ただ、悲しそうな目でわたしを見つめるだけだった。
 でも。わたしは、真紀に非難されたかった。真紀の怪我はわたしのせいなのだと、責め苛んでほしかった。そのくらいの罰をうけて当然だと思った。真紀から全てを奪ったことに対する罰としては、それでもまだ軽すぎるぐらいだ。
 なのに、真紀は黙ってわたしを許し、それをいいことに、わたしは真紀を置き去りにした。
 そして……真紀は、死んだ。たったひとりで、逝ってしまった。
 自分が許せなかった。許されるべきではないと思った。だから……真紀の姿を借りて、自らを罰しようとした。
 でも──智紀は?
 
「智紀が共犯者って……? なぜ智紀が罪の意識を感じなくちゃいけないんですか?」
 先生は、悲しそうにわたしを見た。
「それは……彼があの事故に深く関わっているからだよ。君は憶えていないかもしれないが、事故があったとき、智紀は、私と一緒にあの現場に居合わせたんだ。そして、彼があそこにいなければ……あの事故が起こることはなかった」
「……どういうことですか? あれはわたしのせいで起きた事でしょう? 智紀の介入する余地なんて、まったく無かったはず……」
 そこまで言いかけたとき、窓の外でなにか物音がした。
 ひゅうっ、こつっ。誰かが窓に小石をぶつけているのだ。
「……君の知りあいが、君を探しに来たようだね」
 そう言われて耳を澄ますと、かすかにわたしを呼ぶ声が聞こえる。
 カズユキだ。カズユキが、校舎内にいるはずのわたしに合図をしているのに違いない。
 だけど、どうして、カズユキは中に入ってこないのだろう。わたしと智紀が侵入した窓が開いているはずなのに。なぜそこから入ろうとしないのか。
「彼はここへは入れないよ」
 わたしの心を読んだかのように、先生が言う。
「ここは、普通の場所ではないから。私がいるせいで、彼岸でもない、此岸でもない、そんな場所になってしまっているから。だから……君や智紀のような、心のバランスを欠いた人間にしか立ち入ることはできないんだ」
「そんな……」
「だからこそ、真紀の幻も見えたんだよ」
 つまり──わたしと智紀は、異世界に入り込んでしまったということか。
 黙り込んだわたしの耳に、再びひゅうっという音が届いた。
 その瞬間、ある場面がわたしの脳裏にまざまざと浮かび上がった。
 
 音をたてて飛んできた小石が、わたしの額に当たる。額が割れ、血が流れ出し、視界が朱に染まる。突然の出来事に驚いたわたしは思わず手を離し、そして、真紀が倒れ──。
 
 ……そうだ。思い出した。あの時、誰かがわたしに小石を投げつけたのだ。あの石礫が、事故を引き起こすきっかけとなったのだ。
 そして、あの時わたしに石を放ったのは──。
「もしかして……智紀……?」
 先生の表情がさらに曇る。
「……彼は、今もあの日のことを忘れられずにいる。自分の手で、最愛の姉の未来を奪ってしまったという事実が、彼を苦しめ続けているんだ。だからこそ、真紀を通して君を責めることで、罪の意識から逃れ、なんとか心のバランスを保とうとしている」
 わたしは思わず顔を手で覆った。
 あの事故の時、智紀はまだ十歳かそこらだったはずだ。そんな年齢で、一生消えぬ十字架を負うことになるなんて……それが彼に課せられた運命だとしたら、あまりにも残酷すぎる。
「わたしがあの時智紀の投げた石をよけていたら……当たった石に驚いて手を離さなければ、真紀も智紀も傷つかずにすんだのに──」
「それは違う。突然石をぶつけられて、跡が残るほどの傷を負ったんだ。びっくりして手を離すのも当然だ。責められるべきなのは、むしろ私の方だ。智紀のそばにいたのに、彼を止めることができなかった。私の責任だ」
「でも──」
 先生は、語調を強めてわたしの言葉を遮る。
「あまり自分を責めてはいけない。あの子が怯えて、君の元に戻ってこられなくなってしまう」
「あの……子?」
 先生が言っているのは、先刻階段を駆け昇っていった、あの怯えた目をした少女のことだろうか。でも、わたしの元へ戻ってこられなくなるというのは、一体どういうことだろう。
 
 ──ご、めんな……さい……、ごめ……なさい……
 そう繰り返しながら、震えていた少女。
 怯えたまなざし。傷だらけの手足。額から流れ落ち、頬をつたう血の雫。
 
 ……ああ、そうか。あの子は、わたしだ。あの運命の事故の日の、わたしなのだ。
 
 そっと自分の額に触れてみる。今も、わたしの額に残る傷。鏡を見る度、わたしにあの日のことを思い起こさせる、引き攣れた傷跡。この傷は、わたしに押された烙印──。
 
「君があまりに自分を責めるから、あの子はいたたまれなくなって、真紀に関する記憶を抱えたまま……君の中から抜け出してしまった。君が記憶を失ってしまったのは、そのせいだ」
 だから、あの子はわたしを恐れていたのだ。外でもない、わたしが、あの子を怯えさせたのだ。
 わたしはゆっくりと立ち上がった。
「……あの子を連れ戻してきます。わたしの過去を取り戻すために」
 そう言って階段を昇りかけたわたしを、先生が静かな声で呼び止めた。
「君に……頼みがあるんだ」
 足を止めて振り返ったわたしに、先生は言葉を続ける。
「智紀を、助けてやってほしい」
「助ける……?」
 先生は真剣な表情でうなづいた。
「彼は今、現し世と隠世の狭間の闇にのみこまれてしまっている。……この夜が明けたら、私は黄泉へ向かわなくてはならない。私が去れば、ここは元通りの通常の空間に戻るだろう。それまでに、智紀を連れ戻さないと──彼は二度と戻れなくなってしまう」
「それは……死んでしまうということ、ですか」
「いや、そうではない。彼岸にも此岸にも辿り着けず、永遠に闇の中をさまようことになるんだ」
 わたしは息をのんだ。
 智紀──なんてこと。
「本当なら、私が彼を救わなくてはならないんだが、今の私が行けば、かえって彼を闇に引き込むことになってしまう。だから──頼む。夜明けまでに彼を連れ戻してほしい」
「わたしに、智紀を救うことができるんでしょうか。自分を救うことさえできないわたしに……」
 うつむいてしまったわたしに、立ち上がった先生がやさしく諭すように言う。
「……君にしか、できないことなんだよ」
 わたしの頭の上に、先生の手がぽんと置かれた。
「じゃあ、頼んだよ」
 その言葉にわたしが顔を上げたときには、先生の姿は消え失せてしまっていた。
 
 重い足取りで階段を昇る。やけに歩きにくいと思い足元を見ると、靴が片方しかなかった。そういえば、さっき階段でつまづいたときに脱げてしまったのだったっけ。
 片方脱げた靴。夜明けに定められたタイムリミット。……とんだシンデレラだわ。
 今更靴を探しに行く気にもなれず、かといってこのままでは歩きにくいので、もう片方の靴も脱ぐことにした。ストッキングだけになった足に、床がひんやりと心地よい。
 三階に向かいながら、ぼんやりと考える。
 わたしと智紀が、今夜ここで出会ったのは、果たして偶然なのだろうか。それとも……真紀がわたしたちを引き合わせたのか。
 ……わたしたちは、真紀という惑星のまわりを回る衛星同士なのかもしれない。真紀の存在によって引き寄せられた二人。そして今、その引力を失って、バランスをうまく保てずにいるわたしたち──。
 ようやく三階に着いた。校庭から微かな明かりを見た、あの教室を探す。智紀はそこにいるに違いないから。
 見まわすと、一つだけ開いている戸があった。あれが、そうだろうか。
 そっと近づき、中をのぞき込むと、窓際の一番前の席に、人影が見えた。足音をたてないように注意しながら、人影に近づく。
 窓から降り注ぐ月光に照らし出されたその人物は、小さな椅子に窮屈そうに腰掛け、机に突っ伏して眠っているようだった。……やはり智紀だ。
 揺り起こそうと手を伸ばしかけて、一瞬ためらう。先程の彼の態度からすると、また拒絶されそうに思えて、怖かった。
 でも……夜明けまでそう時間があるわけではない。急いだ方がいいに決まっている。
 思い切って、智紀の腕に触れる。あたたかい。生きている者だけが持つぬくもりだ。さっきの先生の手にも、真紀の幻にもなかったものだ。
 智紀の腕をそっと揺り動かす。
「智紀……智紀。起きて。智紀」
 何度目かの呼びかけで、智紀の体がぴくりと動いた。ゆっくりとその目が開かれる。
「……よかった。さあ、早くここを出ましょう」
 智紀の手を取ろうとして、彼の様子がおかしいことに気づく。
 智紀の目はとろんとしていて、焦点が合っていないようだ。寝惚けているのだろうか。
「寝惚けてる場合じゃ……」
 わたしがそう言いかけたとき、智紀が口を開いた。
「雅水ちゃん……来てくれたんだ」
 はっとして、その顔をまじまじと見つめる。
 智紀の顔。真紀とよく似てはいるけれど、紛れもなく少年の顔。
 でも、その顔に浮かぶ表情は。夢を見ているようなまなざし。ほんの少し開いた唇。やわらかな微笑み。……真紀の、微笑み。
「雅水ちゃん……」
 わたしを呼ぶ声の調子も、真紀そのものだ。
「……真紀?」
 おそるおそる呼びかけると、こくりと首を縦にふる。
 これはいったいどういう事なのだろう。精神の安定を欠いた智紀が、自分を真紀だと思いこんでいるのか。それとも……本物の真紀が智紀の体に宿っているのか。
 ……わからない。わたしには、わからない。
 
 わたしの戸惑いをよそに、智紀は立ち上がり身を翻すと、軽やかな足取りで廊下に走り出た。
 あわててわたしも廊下に出る。
 智紀は、わたしの姿を認めると、にっこりと笑いかけてきた。
「雅水ちゃん、こっちよ」
 そう言うと、智紀は、暗い廊下の奥の闇めがけて駆け出した。智紀の後ろ姿は、あっという間に闇に紛れて見えなくなってしまった。
 わたしは……ただ呆然と立ちつくしていた。頭が混乱して、なにがなんだか分からなかった。
 智紀はどうなってしまったんだろう。先生の言っていた、『闇にのみこまれている』というのはこのことなんだろうか。それとも、どうかしてしまったのはわたしの方だろうか。
 どうしたらいいのかわからないまま、じっとしていたわたしは、ふと足がひやりとするのを感じた。
 足元に目をやって……わたしは目を疑った。わたしの足元には、海が広がっていた。
 廊下の奥の方から、穏やかな波が打ち寄せてくる。寄せては返す波は、わたしの足にまとわりつき、わたしを闇の中へと誘う。
 これは──真紀があの日身を沈めた海なのだと、直感的に悟った。
 と、波の音に混じって、遠くから微かなピアノの音が聞こえてきた。波のように緩やかに流れてくる旋律。海の底に静かに沈んでいくような気持ちにさせる、ゆったりとしたメロディー。
 サティの「ジムノペディ 第一番」。真紀の好きだった曲だ。
 たしか、この廊下の奥には、音楽室があったはずだ。このピアノ曲は、そこから聞こえてくるのに違いない。
 ……わたしを、呼んでいるのだ。押し寄せる波も、ピアノの音色も……すべてが、わたしを闇の奥へと導くためのもの。
 闇の向こうでわたしを待っているのは何者なのか。真紀か、智紀か、あるいは、あの子──少女時代のわたしなのか。それはわからない。わからないけれど。
 ここでただじっと立ちすくんでいても、なにも始まらない。
 それに、夜明けまで、もうあまり時間もないのだ。
 
 わたしは、ついに覚悟を決めて、目の前に広がる闇の中に一歩踏み出した。

話 ─終─

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第六話(とくぢろう)