by.とくぢろう
わたしと智紀は校舎の周りをぐるぐると回って、どこからか中に入れないものかと考えあぐねていた。
「窓、割ろうか」
智紀がポツリと呟く。
「馬鹿ね。それじゃ泥棒と一緒でしょ」
「冗談」
莞爾と笑う。思いの外、人懐っこい笑顔だ。しかし──
彼はやおらしゃがみ込むと、足もとの小石を二、三個品定めして拾い上げる。それから、ポケットに手を突っ込んでごそごそ引っ掻き回すと、くしゃくしゃになったハンカチを取り出し、小石をそれに包む。そして。
掌におさまった小石の包みで、すぐそばの窓の、鍵のかかっている辺りをゴンゴンと叩き始めた。
「ちょっと、冗談って言ったじゃない」
「大丈夫」
いくら音を加減して叩いているからって、夜の深閑とした学校に響き渡る騒音としては、充分だった。さっきの見回りの警備員がまたぞろ駆けつけてこないとも限らない。
ぱりん。
意外に乾いた、軽い音だった。
窓に幾つかの亀裂が走る。
智紀は用心深く細かい破片を摘み取ると、ガラスのかけらが落ちて音を立てないように、器用に、大きな塊を取り除いた。
「うまいね」
「まぁね」
窓にあいた穴に手を突っ込んで、内側から鍵を外す。
「ほら、あいた」
「あきれた」
智紀は微笑みながら、手を引っ込める。
「あっ、痛っ」
智紀が小さく呻いた。そのまま右手の人差し指を、口元に持っていく。
「切ったの?」
「平気」
智紀は子供っぽく指をくわえて、傷を舐めながら応える。
わたしは、鞄の中に、小さなポーチがあったのを思い出した。多分絆創膏が二、三枚入っていた筈だった。
「ほら、指かして」
わたしの言葉に素直に従って、彼が指を差し出す。わたしは、その人差し指に絆創膏を巻きつけようとしたが、その小さな傷口から見る間に血が溢れ出してくるのに、思わず、見入ってしまった。
月の明かりしかない、そんな暗がりの中で、彼の指から流れ落ちた血はどす黒く、地面に幾つかの小さな染みをつくっていた。
真紀。真紀の腕を滴り落ちる赤い血。彼女の細い指の間を何本もの赤い筋が這い回る。
それは、そのまま地面に流れ落ちて、大きな澱みをつくる。
澱みの中に沈んでいく、真紀。
いたいよぅ、まさみちゃん。
いたいよぅ…………
血溜まりの中から、真紀が立ち上がる。ふらふらと力なく。
彼女の白いワンピースは、もう赤とピンクのまだらになって汚れている。引き裂かれたスカートの裾から、彼女の細い腿が見える。その腿の内側にも鮮血が走っている。そして、彼女の膝。
残酷な彼女の膝。
ふらふらと立ち上がった真紀の身体がよろけて、崩れ落ちる。
崩れ落ちる。
彼女は、もう、立てないのだから。ただ崩れ落ちる…………
「どうしたんだよ」
智紀の声で我に返った。突き出された彼の指が目に飛び込む。
「ごめん」
手早く、彼の傷口をティッシュでぬぐって、絆創膏を巻いた。
「まさか、血を見て貧血?」
智紀の声はほんの少し嗤っているようだった。
わたしは何だか頬が熱くなってしまった。少しふくれた声で言い返す。
「まさか」
わたしたちは窓を開けて、そのかまちに足をかけて、校舎の中に入り込んだ。
初夏なのに、ひんやりとした空気が廊下に漂っていた。
廊下の曲がり角の向こうにある、非常口の緑色の光が、ぼんやりと世界を染めている。
何年振りなのだろう。
久し振りに見る小学校は、すべてが小作りで、愛らしいものだった。
窓は低く、ドアの取っ手の位置も低い。ここは、明らかに子供の背丈に合わせた世界だ。もう大人になったわたしは、決して子供の視線に戻れはしない。子供の視線なら、この場所はどういう景色に写っていたのだろう。
おぼろけながら、小学生の藤井雅水の記憶が頭をよぎる。
だが、同じような学校の光景なのに、微妙に画像がぶれる。今目にしている光景に違和感を覚えている。
そうか。記憶の中の学校は、子供の眼差しが見つめた景色のままで、今のわたしが見ている景色と同じであって、同じでない。
高さが違う──次元が違う。
目線が違う。それだけで、世界は異次元への扉を開けている。
そして、人は歳をとるたびに目線を変えて、違う次元を旅していく──だから、この違和感は、同じ場所でありながら、二つの世界が私の中で交錯している所為だ。ただし、過去の記憶の中によみがえる世界は、もう手が届かない存在だ。触れようとしても永遠に触れることが出来ない陽炎のようなものだ。
わたしにとっては。
でも真紀にとっては──?
「あれ、三階だったよな」
智紀が言う。その声音は緊張しているのか、少し震えている。
「こわいの?」
わたしは、少し意地悪だった。
「そっちこそ」
負け惜しみだ。わたしたちは、一瞬見詰め合って──共犯者めいた微笑をお互いに浮かべた。不思議な連帯感がにじむような嬉しさに、安堵すら覚える。
「なまえ」
「えっ?」
先を歩く智紀が、振り返らずに言う。
「俺、あんたの名前聞いていない」
確かに。彼にはまだ名乗ってはいなかった。
わたしは、ためらった。まだ、それが自分の名前であるのかどうか、自信がなかったからだ。わたしは藤井雅水。ふじいまさみ。
そう呼ばれた記憶は、ある。
だが、本当にわたしは藤井雅水なのだろうか。
真紀の言う「雅水ちゃん」なのだろうか。
どうしても拭い去ることの出来ない疑念に迷うわたしに、聊か智紀は苛立ったようだった。
「教えてくれないんだ」
「別に──そんなわけじゃ……」
「……」
気まずい。
立ち止まってしまったわたしにかまわず、智紀は歩きつづける。廊下が終わって、階段が迫っていた。智紀は無言で階段に足をかける。
わたしは自分の気持ちを押し殺した。
「ふじいまさみ」
その声は夜の校舎に、異様に薄ら寒く響いた。
階段を昇りかけた智紀の足が止まった。
「どうしたの」
智紀が振り返る。
その顔は表情を失っていた。
「どうしたのよ」
智紀は応えない。わたしが詰め寄ろうとすると、智紀はそのまま後ずさり、階段を昇った。不安定に身体が揺れている。
「どう──」
「まさみちゃん」
彼の言葉にわたしが絶句する番だった。
「雅水ちゃんだったんだ」
「──私のこと、知っているの?」
わたしは智紀に手を伸ばした。
「さわるな!」
激しい拒絶。わたしの指先は、彼の手で払われた。ほんの少し手と手がぶつかった音が派手に鳴って、空気を切り裂いた。わたしと智紀の間に束の間生まれていた空気を、切り裂いた。
じんと、鈍い痛みが指先に残った。
「気づかなかった。雅水ちゃんだったなんて」
どういうこと。
彼はわたしを知っている。
でも私は、彼を知らない。
記憶がない。
「わたし……」
智紀はわたしに喋らせなかった。
「うるさい! お前が──」
続く言葉が、わたしを乱暴に突き放した。
「お前が真紀を殺したくせに!」
智紀が階段を滅茶苦茶に駆け上がっていく。私は追いかけることも出来ずに、ただ取り残されて立ち尽くしていた。
おまえが、まき、を、ころした、くせに。
殺したくせに。
どれくらいわたしが立ち止まっていたのかわからない。
しかし、再び──と言うか、ようやく──歩き出したわたしの動きはまだ緩慢だった。
階段を一段ずつゆっくりと上がる。
子供向けに段差を低くした階段は昇りにくかった。足元で突っかかるようだった。
わたしは、階段を昇りながら泣いていた。
涙が止まらなかった。理不尽な悔しさに唇を噛み千切らんばかりになりながら、こみ上げてくる嗚咽を喉の奥に押し込んで、わたしは泣いていた。
こらえきれなくなって階段の途中で止まり、そのまましゃがみ込んでしまおうとした。
雅水ちゃんは、本当に泣き虫ね。
泣かないで。大丈夫だから。私がそばにいるから。だから……もう泣かないで。お願い。もう、泣かないで…………
風が、囁く。
わたしは、振り返った。
そこに真紀が立っていた。
真紀。白いワンピース。サンダルを脱いだ細い足首。彼女のサンダルは転がっている。懸垂シーソーの柱の、すぐそばに転がっている。
それを拾ったのは、安河内先生だった。
わたしは、その光景を呆然と見ていた。
ただ、見ていた。
真紀が近づいてくる。私は動けない。うっとりと微笑むような真紀の表情を見つめている。真紀の瞳。唇。白い顔。
智紀の顔。智紀の怒りに満ちた瞳、唇、青ざめた顔。
やはり真紀と智紀は似ている。ただ……目の前の真紀は、その笑顔があまりにも儚くて禍禍しくて、熱に浮かされてさまよう……『ハムレット』のオフィーリアさながらだった。
オフィーリアは死んだ。
狂って……水に落ちて死んだ。川だったか湖だったか……真紀は──真紀は、どこに落ちた。懸垂シーソーで飛びあがった空から、あの海へと、真紀は落ちた。
落ちたんじゃない。
真紀は、自分から、海へ入っていったんだ。
あの壊れた膝を引きずって。
真紀の後ろは、今私自身が歩いて来た暗い廊下だ。
わたしが、まばたきさえ出来ず立ち尽くしている階段のほうへ、真紀はゆっくりと歩いてくる。暗い廊下の向こうは、まったくの闇に閉ざされて見えない。
潮騒が聞こえる。
あの日、真紀を呑み込んだ潮騒。
大きな弧を描いて、白く泡立つ波頭が、廊下の奥の──その闇の向こうから、奇妙にゆっくりとしたスピードで、こちらに押し寄せようとしている。
ねっとりと、うねる、暗く巨大な腕。
それは、もうすぐ真紀を呑み込んで、きっと私も押し流してしまう。
真紀は気づかないのか、振り向きもせず、こちらに進んでくる。
「だ……め……」
言葉が声にならない。
私は、必死になって喉に突っかかる塊を吐き出そうとした。
「駄目──! 真紀、こっちへ──こっちへ、来ないで!」
波が消えた。
真紀も消えた。
ただ、暗く静まり返った廊下があるばかり。
わたしは、また、真紀を見放した。
「いいや、そうじゃない。事故だったんだ」
突然の声に、私は振り返った。
階段の上のほう、二階へ上がる前に一旦階段が向きを変える踊り場に人影が立っていた。
安河内先生。
懐かしいグレーの背広。白い開襟シャツ。ちょっと困ったような笑顔。
「あれは事故だったんだ、藤井さん。君がいつまでも気にすることじゃない」
事故。懸垂シーソー。真紀。
私たちの「特等席」でおこった事故。
──海が見たいの。雅水ちゃん。
あの「特等席」から見える海よ。
大人しくて、誰彼なく穏やかに接していた真紀。でも……誰にも、本当のことは何一つ言わなかった真紀。
それは小学校を卒業して、中学生になって、ますます度合いを強めていった、彼女の孤絶だった。
真紀は、そっと、まるで秘め事のように、私にだけは囁いた。
両親、離婚したの。でも、苗字は変わらないの。私は父のほうに引き取られるから。でも、弟は…………。
弟。
真紀は、「特等席」のために、小学校まで足を運んだのだろうか。それとも、まだ幼い弟に会うために、やってきたんだろうか。
誰よりも少女で、でも、誰よりも大人だったかもしれない真紀。
真紀は、あの日、懸垂シーソーから空をめがけて、手を離した。そして──落ちた。
ベッドに寝かされた真紀。車椅子の真紀。もう、自分一人では歩けなくなった真紀。
わたしは、彼女に、ずっとそばにいると約束した。約束したのに……。
亮子。亮子は、中学からの友達だった。私と真紀の共通の。私と亮子は同じ高校に進んだ。でも、真紀は、ベッドに縛り付けられたままだった。
「あれは事故だもの。気にしちゃ、駄目よ。雅水」
そう言ったのは、中学生の亮子。
「いいじゃない。仕方ないでしょ。あんただって、いつまでも真紀のそばにくっついているわけには行かないもの……カズユキだって、あんたのこと、好きらしいし」
そう目を伏せたのは、高校生の亮子。
「どうして見殺しにしたのよ。あんたが、真紀を見捨てようとしたから、あの子……あんたが殺したようなものよ。大学のためだからって、町を離れて──真紀のそばからも離れようとして──真紀があんたしか頼る人がいないってわかってたじゃないの」
そうなじったのは、大人の髪型に変えた亮子。
さびしいお葬式だった。真紀のお父さんは、ただ黙って弔問客に頭を下げる。
安っぽい葬儀場は、決して広いとは言えないのに、ガランとして寒々しい。
私の隣に座ったカズユキは居心地悪そうにしていた。
たいして仲が良かったわけでもないくせに、これ見よがしに泣きじゃくって見せた亮子。
亮子は、カズユキの隣を陣取って、彼の肩に寄りかかって泣き崩れた振りをする。
わたしは、泣けなかった。
ひたすら、目の前の棺に横たわった真紀と、黒い額縁に閉じ込められた彼女の写真に目を凝らしていた。
遺影の真紀は、にこりともしていなかった。まるで怒っているようだった。
ふと、我に返ると、安河内先生の幻──だったのだろうか──も、消えていた。
智紀を捜さなくちゃ──智紀…………そう言えば、真紀の葬儀の時に、ずっと片隅に座って、私と同じように真紀の写真を見つめたまま、身じろぎもしない少年がいた。詰襟の学生服を着た中学生。まだ愛らしさが残る頬を青白くこわばらせていた。
ごめん。
わたしは、そう心の中で呟いた。
みんな、わたしのせいだ。
急に、肩から下げた鞄の中で動くものがあった。一瞬、どきりとするが、それが携帯電話であることがわかった。音を消していたらしく、バイブの震えが着信を知らせたのだ。
非通知になっている。
私は恐る恐る応えた。
「はい──?」
「藤井、お前どこにいるんだよ」
カズユキの声だった。
でも、どうして───
「お前のさ、引っ越した実家に電話かけて、携帯きいた。どこにいるんだ? まだ帰ってないだろ」
いきなりまくしたてる、その口調だって嫌いだったのに、今は何だかひどく頼りなくて、苦しくて、すがり付きたい気持ちになった。
「学校……」
自分でも吃驚するぐらい、私の声は弱々しく、力がなかった。カズユキは、もう一度きき返して来た。わたしは、精一杯──喉が張り裂ける思いで叫んだのに、ようやくそれで普通に聞こえる音量になったらしい。
「……ンで、そんなトコにいるんだよ」
「だって……真紀……が」
そこまで言って、わたしの足は力を失った。ぺたんと、その場に尻餅をついて、わたしはすすり泣き始めてしまった。涙があふれ出て、言葉が詰まる。
「お前、あの小学校にいるのか……」
「…………」
「藤井、聞こえてんのか──」
「…………」
応えないわたしに、カズユキが苛立っている。
何か言わなきゃ。
「藤井、どうして今更──」
何か、言わなきゃ。
「すぐ、そこ、でろ。お前、終電なくなんだろ」
「……にきてよ……」
「えっ?」
「迎えに……来てよ。もう……歩けないんだから。もう……動けないんだから、あんたが、ここに来て……助けてよ……助けて……」
急に身体が軽くなって、笑いの衝動がこみ上げてくる。
オーバーフローだ。感情が限界を超え、解放を求めて、身体を痙攣させる。泣いてるような、笑っているような、小刻みな引きつりに全身が支配される。携帯の向こうのカズユキは気づいたのだろうか?
「お……おう、わかった。そこ、動くなよ。藤井、いいな。今から俺が行くから、絶対、そこを動くんじゃねぇぞ」
同じ言葉を、昔聞いたことがある。
携帯が切れた。まるで、現実との一切のつながりが切れたかのように。
絶対、そこを動くんじゃない。
動いたのは、誰だ?
わたし、カズユキ、真紀、亮子…………動かぬものなどないというのに。
冷たい床の感触に、腰を上げようとして、視線を持ち上げると──そこに、真紀がいた。
わたし、あの人、嫌いだな、まさみちゃん。
誰のこと──カズユキのこと? そうだ。真紀は嫌っていたね。どうして?
あの人、乱暴。デリカシーないし。近づくと、ほんの少し煙草の匂い。わたし嫌い。
そういうところに──憧れる時期もあるの。憧れていた時期も──あるの。子供っぽくて、教養なくって、軽薄でも──それが素敵に思えた時もあったの。
だから、まさみちゃん。わたしを捨てたんだ。
今の今まで、目の前に立っていた真紀が、一瞬にして音もなく、廊下の奥の暗がりに遠ざかった。表情は見えないが、きっと怒りで醜く歪んでいる。そう──あの懸垂シーソーから落ちた、あの時のように、醜く歪んでいる。
廊下に並ぶ教室。暗く閉ざされた窓や戸。それらが一切に開け放たれた。
カーンッと、木槌を叩くような音が響く。勢いよく窓や戸が桟の上を走る音だった。
わたしはその場に立ちあがることも出来ず、凍りついた。
真紀──
ゆっくりと──開け放たれた教室の暗がりから、白い影が這い出してくる。ぼんやりと、鈍くひかる、細長い、無数の腕。いくつもの教室から、いくつもの白い腕が廊下にさまよい出て、のたうち、やがて方向を定める。
わたし、だ。
わたしをめがけて、白い蛇のような腕が──子供の手が、廊下を滑るように近づいてくる。ゆっくりと、ゆっくりと。
真紀は笑っている。にこやかに微笑んでいる。
「やめ──やめて、真紀──助けてっ」
──そして、白い腕が、わたしの肩をつかもうとする。
第六話 ─終─