迎え



 暑い夏だった。家の中でじっとしているだけで体中に汗がにじむような、暑い夏の日だった。
 女は、門口で黙々と火を焚く準備をしていた。
 絶え間なくきこえてくる蝉の声が、その暑さをいっそうきわだたせる。容赦なく照りつける太陽。風はそよとも吹かない。しかし、女は、流れる汗をぬぐおうともしない。
 また汗が背中を流れて落ちていった。なんともいえぬ不快な感じだが、やはり彼女は気にもとめずにかがんだまま作業を続けている。
「真紀さん」
 背中ごしに名を呼ばれ、彼女はゆっくりと振り返った。その目に映ったのは、ハンカチで額の汗をおさえている初老の男。
「お義父さん……」
 彼女の口からつぶやきがこぼれる。
「今年の夏は、ずいぶん暑いね」
 言いながら、男は顔をしかめた。目に汗が入ったらしい。この男、どうやらかなりの汗かきのようだ。
 真紀は苦笑しつつ、立ち上がった。
「どうぞ、あがっていってくださいな。冷たい麦茶でもお出ししますから」
「そりゃありがたい。ちょうどのどが渇いていたんだよ」
 二人は家の中へと入っていった。男が通されたのは、和室だった。奥にすえられた真新しい仏壇が、重苦しい雰囲気をかもしだしている。
 男はまず、仏壇に手をあわせた。しばしなにやら拝んだ後、彼はくるりと向き直り、真紀が持ってきた麦茶のコップに手を伸ばす。
「この近くまで来る用事があったもんで、ついでに泰行に手をあわせていこうと思ってね、よらせてもらったんだよ」
 男は、そう言うと、うまそうに麦茶を飲み干した。真紀はおだやかな微笑をうかべ、男のコップに麦茶をつぎたす。その手元をみつめたまま、男は再び口を開いた。
「さっき真紀さんがしてたのは、迎え火の準備だね。もうそんな時期なんだねぇ。早いもんだ」
 真紀は麦茶をつぐ手をとめた。
「……新盆だから、なおさらですわ」
「そうだね。新盆の家は早くから焚くもんだからね」
 ふと沈黙が訪れた。自然、二人の目は仏壇にそそがれる。
 この仏壇は、真紀の夫、泰行のものだ。そして、男は泰行の父、真紀にとっては舅にあたる。
 泰行はこの春交通事故に遭い黄泉の住人となった。新婚三ヶ月目の出来事だった。真紀が事故の知らせを受け、かけつけたときには、すでに夫はこの世の人ではなかった。
 あまりのことに、しばらくは呆然自失の状態だった。三ヶ月たった今も、まだ半分夢の中にいるような感じだ。とても現実の出来事とは思えない。いいえ、思いたくない。そんな気持ちのまま、泰行の新盆がめぐってこようとしている。
「真紀さん」
 名を呼ばれて真紀が目を戻すと、舅はコップを手に、なにか考えこんでいる様子だ。
「なんでしょうか」
「……やっぱりあんた、実家に戻ったほうがいいよ。私はそう思う」
「またそのお話ですか」
 真紀は困ったように眉根を寄せた。
「何度も言ったはずです。私にはそのつもりはありません」
「しかしね」
 舅のほうも、そう簡単には引き下がらない。
「あんたはまだ若いんだ。いくらでも人生やり直しがきく。そのためにも、ここにいちゃいけないんだよ」
「お義父さん」
 静かな声で、真紀ははっきりと告げる。
「やり直しなんて、私はいりません。それに、私がこの家にいなければ、お盆にここに戻ってきたとき、泰行さんは独りぼっちになってしまう。そんなのいやだわ」
「真紀さん……」
 舅は困りきって、真紀をみつめた。しかし、すぐに彼は首をふった。事故からまだ三ヶ月しかたたないのだ。泰行のことを忘れろというほうが無理な話なのだ。きっと時がたてば、真紀の気持ちも変わるだろう。それまでは、じっと見守っていてやるしかない。
 そう自分に言いきかせると、彼はゆっくりと立ち上がった。
「わかったよ、真紀さん。しばらく好きにするといい。でも、くれぐれも言っておくが、変な気だけはおこすんじゃないよ」
「変な気?」
 真紀に聞き返され、舅は思わず言葉につまる。
 真紀は、その顔にやわらかな微笑みをうかべた。
「わかってます。私があの人の後をおったりしないか、心配なさっているんでしょう。でも大丈夫です。私はここであの人の魂が帰ってくるのを待ってますから」
「ああ……」
 舅はあいまいにうなづいた。しかし、それは彼女の言葉に納得したからでは決してなかった。それどころか、彼女の態度がかえって彼の不安を増大させた。
 ……真紀さん、やっぱり私は心配だよ。今のあんたはひどく影が薄くて、うつろで、まるであんたまで黄泉の人になってしまったみたいだ。時々私は、あんたが本当にここにいるのか不安になる。あんたの心は、泰行の魂と一緒に、彼岸へ行ってしまったのかもしれない、そんな気がするんだよ。
 しかし、彼はためいきをひとつつくと、なにも言わず、黙ってそこをあとにした。
 門を出るとき、玄関口で見送る真紀をふりかえると、彼女はおだやかに微笑んで彼のほうを見ていた。しかし、そのまなざしは、ひどくうつろなものだった。
 ──舅が帰ってしまった夕方すぎ、真紀は、迎え火を焚きはじめた。燃えさかる炎が、あかあかとあたりをてらしだす。
 これで大丈夫、と真紀は目を細めた。これだけ明るくしていれば、泰行さんも迷うことなくうちへ戻ってこられるはず。
 安心して、真紀はしばらく門火を見つめていた。しかし、燃えさかる炎が、真紀の心にある不安を芽生えさせた。
 門がどこかはわかっても、玄関の場所がわからなかったらどうしよう。
 一度心に生じたその懸念は、炎が燃え広がっていくようにどんどん大きくなりあっという間に真紀の心を埋めつくした
 どうしよう。あの人が、家に入れずに外をさまようなんて、そんなの絶対にいや。
 真紀は少し考えこんだ。その結果、玄関でも火を焚くことにした。そうすれば、泰行さんも、無事に玄関から家に入れるはず。もう、これで大丈夫。
 が、ほっとしたのも束の間、すぐに新たな疑問がわいてきた。
 泰行さんは、いたずら好きな人だった。時々、突拍子もないことをしては、私を驚かせた。そんな人だから、もしかしたら、玄関以外の所から入ってきて、私をびっくりさせるつもりかもしれないわ。そうだとすると、玄関だけじゃだめかもしれない。
 真紀は、夫が入り口にしそうな所を必死で考えた。窓、煙突、ベランダ、人が入れそうなのは、そのくらい?
 そこで、真紀ははっとした。夫は魂だけで帰ってくるのだから、わずかなすきまからでも入ってこられるのかもしれない。そう、思いもよらないような、とんでもないところから入ってくるのかも。
 真紀は困ってしまった。思いつくかぎりのところで火を焚いても、十分ではないにちがいない。もし、入り口に選んだ場所に迎え火がなかったら、あの人、家に戻ってこられないかも。そうなったら……私達は、会えないの? この日が来るのをずっと待っていたのに、会えないなんて、そんなの……ひどすぎる。
 真紀は絶望のあまり、泣きだした。このままあの人に会えないのだとしたら、私はどうすればいい? 二度と会えないなんて、つらすぎる。つらすぎて、この先、生きていけないわ。
 静かに涙を流すうち、真紀にふと妙案が浮かんだ。泰行がどこから入ろうとしても、絶対に大丈夫な方法。これなら、完璧だわ。真紀はにっこりした。
 早速真紀は思い付いた計画を実行にうつした。真紀がしたことは、家のまわりに灯油をまき、火を点けることだった。こうすれば、この家のどの場所からあの人がやってきても、安心だわ。あいにく麻幹(おがら)じゃないけれど、それくらいは大目にみてくれるわね。
 ──あっというまに、火は燃え広がり、家は炎に包まれた。火の回りは早く、めらめらと音をたて、真紀と泰行の家は崩れ始めた。
 火の海に飲み込まれながら、真紀は夫の名を呼んだ。その目には、たしかに泰行の姿が見えていた。にこやかに歩み寄ってくる夫に、真紀は最高の笑顔を向けた。幸せそうな笑顔だった。
「泰行さん、おかえりなさい……」
 その言葉が火にのみこまれ、あとはただ、炎。炎だけが、はげしく音をたて、夏の空をこがし続けた。


迎え ─終─

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