の猫



 見てはいけないものを見てしまった。俺はそう感じていた。
 俺の目の前にいるのは、一匹の黒猫。気位の高そうな、光沢のある真っ黒な躰の猫。血統書の一つや二つ、ついてたっておかしくない。そんな感じだ。
 なじみの店で酒をひっかけて、いいこころもちで、ふらふらと夜の街を歩いていて……何気なく足を踏みいれた細い路地に、その猫がいたのだ。
 そこは、ゴミ捨て場だったらしく、ポリバケツがいくつか転がっている。生ゴミの悪臭もそういえばする。そんな場所のポリバケツの上に座っているとは思えないようなたたずまいの猫だった。
 首輪はないが、きっと以前はどこかで飼われていたのだろう。そうでなければ、この毛並みの良さや、その一種高貴な雰囲気は説明がつかない。
 しかし……この威圧感はなんだろう。どうして、たかが猫一匹にこんなふうに気圧されなくてはならないのか。こいつにじっと見られると、こちらからは決して視線をはずせない。
 なんだか嫌な予感がする。見てはいけないものを見てしまったのだと、何かが、俺の心にそう告げる。
 黒猫(やつ)の目を見てはいけない。頭ではわかっているのだが、どうしても、目をそらすことができない。
 目をあわせたまま立ちすくむ俺を見て、黒猫はゆっくりと起き上がった。のびをするような動作で。そして、俺は見た。その黒猫は、三本しか足がなかった。後ろ足が一本足りなかったのだ。
 傷口の様子からすると、多分交通事故か何かだろう。それで足を一本失い──もしかしたら、そのせいで飼い主に捨てられたのかもしれない。なにせ、血統書付きの動物なんかを飼うような連中は、見掛けだけにこだわるのが多いからな。足のなくなった猫(やつ)には用がないってわけだろう。
 そうだとすれば、この猫の醸しだす雰囲気というのも頷ける。人間に、それも、つい昨日まで自分をかわいがってくれていた人間に突然裏切られたのだから。だからこそ、こいつはこんなふうに高貴で、孤高で、他人をよせつけない威圧感をもっているのだろう。そう思うと、かわいそうな気もする。
 しかし、それにしても。こいつをとりまく空気は、どこか異様だ。何か、怨念のようなものに満ち満ちているような。
 動けないままそんなことを考えていると、すぅっと黒猫(やつ)の目が細くなっていった。針のようだ。普通、猫のひとみは光量によって大きさが変わるものだというが、今は特に明るさが変わったという感じでもない。なのに、なぜだろう。
 黒猫の目が俺を睨み据えた。まるで、射すくめられたように、体がこわばってゆく。額に汗がにじみ、体温が少しずつ下がっていくのを感じる。苦しい。息をすることさえ、つらい。
 やつが、突然ないた。にぁぁぁー、と。断末魔の叫び、というのを想像させる声。こいつは、足を失ったときもこんな声でないたのだろうとふと思った。──そうだ、車が急ブレーキを踏んだときの音にもよく似ている。そんな音を、前にもたしか聞いたことがある。
 あれは、二十年も前のことだろうか。俺は当時まだ三つか四つで、体の弱いガキだった。その夜、俺は高熱をだして、両親に医者につれていってもらう途中だった。親父が運転席、母親が俺を抱いて助手席に。
 親父は、俺を心配するあまり、少しスピードをだしすぎていたらしい。対向トラックをよけきれずに、正面衝突した。そのときも、急ブレーキのものすごい音がした。
 両親は即死、俺は母親がとっさに身をもってかばってくれたおかげで、奇跡的に一命をとりとめた。
 しかし、最近になって思うのだ。あの夜俺が熱をだしさえしなければ、俺の両親は死なずにすんだのではないか、と。もっと言ってしまうと、俺さえいなければ、あんな事故は起きなかったのではないか、と。
 そうだ、俺のせいなのだ。俺のせいで、両親は死んだんだ。なのに、俺は、二人の保険金のおかげでたいした働きもせず、のうのうと暮らしている。これでいいのか?
 ──死ぬべきだ。死んで、罪を償うべきだ。そうしなくては、両親に対して申し訳がたたない──
 そんな声が、不意に、頭の中で響いた。
 そうだ。俺は、死ぬべきなのだ。生きていたって仕方のない人間なのだ。この世に生まれてくるべきではなかった。俺は、だんだんそんな気がしてきた。
 ──死ななくては。今すぐここで──でも、どうやって?
 ──早く。両親を殺したくせに、自分だけ生きながらえようなんて、許せない──でも、どうすれば死ねるんだ?
 俺は、あちこちのポケットを探った。が、刃物はおろか、自分の体に傷をつけることのできそうなものすら見つからない。
 ──死ぬんだ、早く。何をしてる。死ぬんだろう? 死んで両親にわびるんだろう?──
 それはそうなんだが。俺は首をひねった。……そうだ、舌をかみきれば死ねるかもしれない。時代劇なんかで、よく出てくる。うん、これで死ねるかな。
 俺は舌に歯をぎゅっと押しつけた。
 ……痛いだろうな。ふとためらいが心をよぎった。舌なんて、ちょっとかんだだけでも痛いものな。かみきったりしたら、どんなにか痛いだろう。苦しいのは、嫌だな。
 俺が舌をかめずにいると、また頭の中に声が響いた。
 ──なにをぐずぐずしてる。早く死ね。死ね、おまえ。許さない──
 俺は、はっとした。誰だ、この声は。俺じゃない。俺は自分をおまえなんて呼ばない。一体、誰だ!?
 俺は目をみひらいて周囲を見回した。誰もいない。……いや、いた。俺の目の前の黒猫が。
 ……こいつか? こいつが俺を殺そうとしてるのか?
 ──死ね。おまえら、許さない──
 黒猫(そいつ)の目は、憎しみでぎらぎらと輝いていた。やっぱり、こいつなのか?
 俺は逃げようとした。早くこいつから離れなくては。でも、体が動かない。やつの呪縛にかかったように、体の自由がまったくきかないのだ。
 冷たい汗が背筋を走った。
 まずい。このままだと、俺はこの猫に取り殺されてしまう。いやだ。俺はまだ死にたくない!
 その瞬間、俺の背後で何か音がした。人が通りかかったらしい。猫の注意が一瞬そちらにそれた。ふっと体の呪縛がゆるむ。今だ!
 俺はあわてて駆けだした。後ろも見ずに走って走って、やっとのことで自分のアパートにたどりつくころには、やつの気配は消えていた。俺はほっとした。
 それからしばらくの間、部屋の明かりもつけず、俺は考えこんでいた。あの猫、すごい目をしてた。あふれんばかりの憎しみに満ちたまなざし。あいつは人間全体を恨んでいるのかもしれない。おそらく、足を失くした時に、そう思わずにはいられないような事があったのだろう。それで、あの黒猫は、ああやって誰かれかまわず殺そうとしているんだ。……でも、どうして俺なんだ? 俺が一体あいつに何をしたっていうんだ。
 ……いやだからな。こんなことで死ぬなんて、絶対にいやだからな。
 生きることに対しての執着、というものが、この時初めて俺の中に生じた。これまで俺は、両親のこともあって、かなり投げやりに生きてきた。いつ死んだっていいや、みたいに思ってた。でも、今はちがう。俺は死なない。ここで俺が死んだら、なんのために両親が死んだのかわからないじゃないか。命がけで俺を守ってくれた母親のためにも、親父のためにも、俺は、死なない。
 その時、ドアのむこうに黒猫(やつ)の気配を感じて、俺ははっとした。あいつ……ここまで追ってきたのか。なんてしつこいやつだ。でも、どんなことをしたって、俺は死なないからな。
 俺はドアに鍵がかかっていることを確かめると、念のために窓も全部閉め、カーテンを引き、ドアの前に机でバリケードを築いた。これで、あの猫も入ってはこれまい。
 ガリガリと扉をひっかく音がする。やつは怒っているらしく、その音がだんだん荒々しくなっていく。
 俺は、聞こえないふりをする。聞いてはいけない。あれは、幻だ。俺を死へと誘いこむ、幻なんだ。
 しばらくして、音が止んだ。あいつ、あきらめたのだろうか。でも、騙されてはいけない。まだ気配がする。ドアの前でこちらの様子をうかがっているのだ。
 俺は息を殺してじっとしていた。早くどこかへ行ってくれ。念じるような思いで、嵐の前の静けさのような沈黙に耐えた。
 と、不意にその静寂が途切れた。黒猫(やつ)がないたのだ。あのおそろしい声で。
 ──死ね。おまえら、許さない──と。
 俺は耳をふさいだ。この声を聞いてはいけない。このなき声は、人を惑わす悪魔の声なんだ。死の世界への誘いにのってはいけない。
 死が、俺を優しく誘(いざな)う。でも、だめだ。俺は、今死ぬわけにはいかないんだ。
 やつの声は、とぎれとぎれに何度か続いた。そのたびに、死の誘惑が俺を惑わせた。でも、俺は耐えたのだ。
 そして、いつしか猫の声は聞こえなくなっていた。やつの怨念も、俺の生への執着には勝てなかったのか。俺は、ほっと息をついた。
 やがて、黒猫の気配は、完全に消えていった。やつめ、あきらめたな。しかし、なんだか外がさわがしい。
 俺はなにかひどく気にかかり、急いでバリケードをかたづけて、ドアを開けた。すると、そこには、数人の人間がころがっていた。どれも、ここの住人だ。アパートの管理人の姿もある。そして、何より驚いたことに、彼らはみな、死んでいたのだ。胸にナイフを突き立てている者、廊下で首を吊っている者、手首を切っている者と、死に方はさまざまだったが、それらに共通するのは、どれもが自殺ということだ。
 おそらく、あの黒猫の声は、このアパート中の住人に聞こえたのだろう。そして、みな、やつの誘いに負けたのだ。死者の数をざっと数えてみると、どうも住人全部がやられたらしい。生き残ったのは、俺だけ、ということか。
 しかし、それにしても、みな眠っているように安らかな顔をしている。苦しまずに死ねたのだろう。それが唯一の救いか。
 俺は、そっと手をあわせた。みんな、成仏してくれよ。隣の受験生も、向かいの若夫婦も、はすむかいの老婦人も、みんな、安らかに眠ってくれ。
 静かだ。ここで生きている者は、俺一人になってしまったのだ。俺の呼吸の音以外、何の物音もしない。
 もしかしたら、俺のせいだろうか。俺がやつをここへ引きこんでしまったのかもしれない。もしそうなら、俺は許されないことをしてしまったのだ。
 でも、俺は……いや、やめよう。何を言っても、言い訳にしかならないだろう。今さら言い訳なんてしても仕方がない。それよりもまず、これからどうするかを考えるべきだ。
 こんなことになった以上、もうここにはいられない。明日になれば、きっと警察がやってくるだろう。そうすれば、俺に疑いの目が向けられるのは目に見えている。いくらみんな自殺だといったって、俺一人生き残っているのを見れば、周囲は俺を不審に思うだろう。
 それに、またいつあの猫が現れるかわからない。俺一人のときならまだしも、他の人達のいる時にやつがやってきたら……。
 これ以上、まわりの人間を巻きこむわけにはいかない。やつに狙われるのは、俺一人でたくさんだ。
 俺は部屋へ戻ると、大急ぎで荷物をまとめた。財布と通帳と印鑑と、とりあえずの着替え。それくらいでいい。どうせ、これからは警察と黒猫(やつ)に追われる暮らしになるのだ。安定なんて望めない。できるだけ荷物は少ないほうがいい。
 荷物を作り終えると、俺は部屋を出た。アパートの住人たちの体を踏まないよう注意しながら、なんとかアパートを出る。外はすっかり漆黒の闇に包まれている。
 俺がこれからの生活を思い、ためいきをひとつついた時、暗闇の中から、例の黒猫が姿を現した。
 やつと俺の目があった。やつは、俺だけを見つめていた。呪っても呪っても死なない俺に、興味があるのだろうか。いや、多分二度までも殺しそこなった俺を、どうしても殺してやりたいと思っているのだろう。
 まあ、いい。どちらにしても、俺にはもう他に道はないのだから。
 この猫が俺に執着する以上、俺が死なない限り、こいつは他の人間を狙うことはないだろう。そして、皮肉なことに、俺にはもうこの猫しかいないのだ。
 さあ、俺についてこい、闇色の猫。おまえはこの先何度も俺を殺そうとするだろう。死の世界が何度も俺にささやきかけるだろう。でも、俺は死なない。闇の猫、おまえがいる限り、俺は死なない。人を殺すためだけに生きているおまえのために、俺は、生きてやる。決して殺されはしない。
 そう。俺は死なない。絶対に。
 俺は、歩き始めた。少し遅れて、足を引きずりながら、黒猫がついてくる。いつまでも、こいつは俺についてくるだろう。
 ……なにか変な感じだ。俺達は敵同士だというのに。俺はこいつに命を狙われているのだというのに。なんだか、仲間のような感じがするのだ。
 ひとりぼっち同士、似ているからかもしれない。他に頼るもののない寂しさが、俺にそう思わせるのかもしれない。
 こいつさえいれば、生きていける。そんな気がする。こいつが俺の生きがいなのだ。こいつが俺を殺そうとするたび、俺は生きたいと思うだろう。こいつによって、俺は生かされるのだ。
 俺達の前には、どこまでも暗闇が広がっている。他に、道はない。
 そして、俺達は闇の中を歩き続ける。


の猫 ─終─

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