雫の



 夏の宵、駆け足で夕立が通り過ぎていったあとの森は、なにもかもが雫に濡れていた。
 ごつごつした肌を見せる木々も、足下を埋め尽くす下草も、ところどころに転がる岩も、あるいは、木の間を滑り抜け、美樹の手に、足に、肩に、唇に、やさしく触れる風さえもが、水気を帯び、潤っている。
 目を閉じ、木にもたれかかると、湿った土の匂いが鼻腔をくすぐる。水の匂いだ。そうしていると、体に降り注ぐ月の光さえ、露を帯びてしっとりと湿っているように感じられる。
 しん、と静まり返った森の中に、美樹の吐息の音だけがやけに大きく響き渡る。

 ――あの人は、来ないかもしれない。
 美樹は懐から小さな懐中時計を取り出した。彼がくれたその時計の針は、七時半を指している。約束の時間から、既に三十分が過ぎてしまった。
 時計を頬に押し当てると、幾分上気した肌にひんやりと心地よい。規則的に時を刻む音が、耳の奥にこだまする。
 同じ音を、何度も彼の腕の中で聞いた。あの日も、そうだった。この時計を美樹に渡しながら、「二人で遠くへ逃げよう」と彼が言った、あの日も――。

 ――そう。先にそれを言い出したのは、あの人の方だったのに。
 再び美樹はため息をついた。
 来ないつもりかもしれない。もう、来ないかも。
 手にしていた小さなトランクを足下に置き、その上に腰を下ろすと、美樹は白い光を放っている月をそっと見上げた。その光は、太陽のそれに比べるとはるかに冷たく、冴え冴えとしている。
 今夜の月は、随分と大きく見える。手を伸ばせば届きそうな気がするくらいに。けれど、それはただの錯覚。どんなに近くに見える月も、いくら背伸びをして手を差し伸べたところで、触れることなど叶うはずもない。どんなに望んでも、どうにもならないことなのだ。
 美樹がこれからしようとしていることも、それと同じかもしれない。いや、それ以上に愚かなことに違いない。
 美樹は、自分たちの無謀さを知っていた。また、それがどんなに恐ろしいことかも、よく分かっていた。でも、そうせずにはいられない。
 他の人が聞いたら、きっと二人を非難するだろう。許されないことなのだと口々に叫ぶことだろう。どうかしていると思う人もいるかもしれない。正気の沙汰ではないと言う人もいるだろう。
 ――その通りかもしれない。私たち、おかしくなってしまったのかも。
 そう。二人の仲を引き裂かれたあの時から、なにもかもがおかしくなってしまった。あれからの二人は、まるで狂人ルナティック。半分死んでしまったような日々。

 月が人を狂気に誘うという。月の引力が潮の干満に影響を与えるように、その体のほとんどが水分からなる人間の精神にも、月が影響を及ぼすのだそうだ。
 こんな月の大きな夜は、そんなことも信じられる気がする。きっと、月が二人の理性を奪い取ってしまったのだ。だからこそ、こんな行動を取ってしまった。なにもかも、すべて月のせい――。

 すぐそばで、かさ、と草を踏みしだく音がしたのに、美樹は気づいた。とりとめもないことをぼんやりと考えていて、今までその音を聞き逃していたのだ。
 振り返ると、彼が立っていた。一緒に逃げようと約束した、彼が。なによりも大切な、愛しい恋人が。
 美樹はふらふらと立ち上がり、彼の胸に飛び込んだ。
「……あんまり遅いから、もう来ないかと思った……」
「すまない」
 月明かりを浴びた彼の顔色は冴えないが、その腕に抱かれた美樹の目には映らない。
「さ、早く行きましょう。誰にも見つからないうちに」
 そう言って恋人の手を取ろうとして、美樹は彼が何の荷物も持っていないのに気づいた。
「……荷物はどうしたの? どこかに置いてきたの?」
 美樹の無邪気な問いかけに、彼は辛そうに顔を歪め、目を逸らした。
「……すまない」
「さっきから謝ってばっかり。どうかしたの?」
 微笑む美樹に背を向け、彼は躊躇いがちに口を開く。
「……俺は、行けない」
「……え?」
 美樹の表情が凍りついた。言われた言葉の意味が、咄嗟に理解できない。そんな美樹の顔をまともに見ることができず、彼は足元に視線を落としたまま、続けた。
「俺には、なにもかも捨てて逃げることなんてできない。両親を悲しませるようなことはできないんだ」
 それを聞いた美樹の表情が、俄に悲しく曇った。
「……そんなの、最初から分かっていたことでしょう? なにもかも失うことも、家族を悲しませることも、すべて承知の上で、一緒に逃げようって決めたんでしょう? それなのに、どうして今更……」
「あんなことを言うべきじゃなかった。あの時の俺たちは、きっとどうかしていたんだ」
「そんな言い方はやめて。私たちのこの思いが間違いだなんて、そんな風に切り捨ててしまわないで」
 懇願するようなその言葉に、彼がようやく振り向き、はじめて美樹の目を見た。美樹に、そして自分自身に言い聞かせるように、苦しげに声を振り絞る。
「いいや、間違ってるんだよ。こんなこと、絶対に許されるはずがないんだ。だって……俺たちは、兄妹なんだから!」


 二人は、幼い日に従兄妹同士として出会った。年齢も互いの住まいも近かったため、自然に親しくなった。
 そして、その気持ちが恋に変わるのに、あまり時間はかからなかった。その先には、幸せな未来が続いているものと、二人とも信じて疑わなかった。──二人の交際を、互いの両親が知るまでは。
 二人の関係を知った日、美樹の母は涙ながらに彼らに真実を告げた。二人が従兄妹ではなく、血を分けた実の兄妹であるということを。
 彼は、美樹の母が結婚前に付き合っていた男性との間に生まれた子供だったのだ。世間体を重んじた家族は、生後間もない彼を、母の兄夫婦に引き取らせた。やがて、母は別の男性と結婚し、美樹が生まれた。
「だから、あなたたちが付き合うことは、許されないの。絶対に、許されないことなのよ」
 ……泣いた。涙が涸れるほど泣いた。
 自分たちに与えられた運命の残酷さを呪った。今頃になって、二人にそんな事実を突きつけた母を、恨みもした。
 でも──恨んでも、仕方がないのだということも、よく分かっていた。
 たとえ、最初から兄妹として出会っていたとしても、二人は同じように恋に落ちたに違いなかったからだ。それほどまでに、二人は強く惹かれあっていた。
 どうすればいいのか、分からなかった。悲しみのあまり、このまま死んでしまうのではないかと思った。彼との仲を裂かれ、魂までも引き裂かれたような気がした。
 そんなとき、彼が言ったのだ。自分たちを知る者のいないところへ行こうと。すべてを捨てて、二人だけで生きていこうと。
 本当に、嬉しかった。誰からも祝福されなくても、彼と二人なら幸せになれると思った。
 それなのに──。

「どうして、今になってそんなことを言うの?」
 美樹のなじるような言葉に、彼は悲しげに目を伏せた。
「それなら、あの時『逃げよう』だなんて言わなければ良かったのに。あのまま、放っておいてくれれば良かったのに……!」
 とうに涸れてしまったはずの涙が、再び美樹の瞳に溢れてきた。零れる涙が頬を濡らす。
 泣き顔を見られたくなくて、美樹は彼に背を向けた。
「……帰って」
「美樹?」
「いいから、早く帰って。私には、もう構わないで」
 唐突な美樹の態度の変化が理解できないのか、彼は美樹の肩に手をかけ、振り向かせようとする。
 美樹は、その手を邪険に振り払った。
「美樹……」
「私のことは、もう放っておいて。お願いだから、私を一人にして。……兄さん」
 その一言は、二人の間の空気を凍りつかせた。彼を兄と呼ぶことは、これ以上ない拒絶を意味していたから。
 傷ついたような表情をその顔に浮かべ、彼は唇をかみしめた。
「……本当に、すまなかった」
 やっとのことでそれだけを口にすると、彼は美樹をその場に残して去っていった。

 彼の足音が聞こえなくなってから、美樹はそっと振り返った。その瞳は、涙で潤んでいる。
 力なく握った美樹の手から、懐中時計が滑り落ちた。美樹の手を離れた時計は、足元の岩に激しく打ち付けられた。軽い金属音、そして、ガラスの割れる音。
 慌てて拾いあげたその時計は、見るも無惨な姿になっていた。表蓋は外れ、文字盤を覆う風防ガラスは粉々に砕け散っている。
 そして。落下の衝撃のせいで、時計はその動きを止めてしまっていた。恋の終わった瞬間を永遠に指したまま、動かない針。終わってしまった、二人の時間。
「どうして……どうして止まるの!? お願い、動いて。動いてよ。もう一度、時を刻む音を私に聴かせて──!」
 どんなに懇願しても、美樹のその願いは聞き届けられることはない。その手の中にあるのは、もはや時計ではなく、かつて時計であったものの残骸でしかなかった。
 まるで二人の恋の抜け殻のようだと、美樹は思った。これ以上、二人の時間を重ねていくことなどできないのだと、はっきりと思い知らされた気がした。

 こらえていた涙が再び零れかけたとき、美樹の肩先になにか冷たいものが滴り落ちてきた。
 顔を上げると、美樹の頭上の木の枝が、葉先に雫を湛えて揺れていた。
 ――そう。一緒に泣いてくれるのね。
 美樹は、目を閉じて、そっと木にもたれかかった。
 ――森よ、お願い。今だけは、私と一緒に泣いていて。この思いを、すべて涙で流してしまうまで。あの人のことを、思い出にしてしまうまで。

 雫の森に抱かれたまま、白い月の光の下で、美樹は静かに泣き続けた。


雫の ─終─

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