暮れ始めた道の先に太吉がその灯りを目にしたのは、普請場から塒である神田仲町の裏長屋へと帰る途次のことだった。
太吉は二十三歳になる大工だ。十二の時に親方に弟子入りして下働きから修行を積み、今年に入ってやっとお礼奉公を終えて親方の元で手間取りの大工として働くようになったばかりだった。
普請場からの帰り道、人家など無い筈の場所に見え隠れする灯火に最初は狐火かとも思ったが、直にその火の正体に気づいて太吉は声を上げた。
「狐火なんかじゃねえ、ありゃあ火事だ」
肩の道具箱を担ぎ直すと、太吉は火元目掛けて駆け出した。
燃えていたのは小さな稲荷神社の無人の祠だった。太吉が辿り着いた時には火は既に勢いを増し、祠全体を包み込んでしまっていた。赤々と燃える炎が暗みかけた空を昼のように明るく染め上げている。
太吉の声を聞き付けたのか、野次馬も幾人か集まり始めた。火消しも追っ付け駆け付けるだろうが、その頃には祠はすっかり燃え落ちてしまっているだろう。どうにかしようにもここまで火の勢いが強くてはもはや手遅れだ。
火事を知らせる半鐘の音を聞きながら太吉は火が燃え広がっていくのを野次馬に混じって苦々しい思いで眺めていた。火事があれば大工は儲かるからと火事を喜ぶ大工仲間もいるが、太吉は火事が嫌いだった。太吉の父親は腕のいい大工だったが、太吉が五つの頃、仕事でへまをして足を折って寝付いていた時に運悪く火事に遭い、逃げ遅れて命を落としたのだ。
火事なんてもの、無くなりゃあいいのに。胸の裡でそう呟いた時、祠の方から幽かにだが人の声が聞こえた気がした。耳を欹ててみてももう何も聞こえはしなかったが、何んだかやけに気に掛かる。
聞き違いならそれでいい、だがもしもそうでなかったら。この中に誰か取り残された者がいるのではないか。太吉のお父っつぁんのように。
そう思うと居ても立ってもいられなくなり、担いでいた道具箱を野次馬の一人に半ば押し付けるようにして預けると、太吉は周囲の者が止めるのも聞かず祠の中に飛び込んだ。
熱と煙で噎せ返りそうになりながらも目を凝らすと、煙の向こうに人影が見えた。折り畳んだ手拭いで鼻と口を押さえると、太吉は舞い落ちる火の粉を避けつつそちらへと近づいていく。
力なくへたり込んでいたのはまだ年若い娘だった。
「おい、早く逃げな」と太吉が云うと娘はゆるゆると顔を上げたが、その目は宙をさ迷うばかりで立ち上がろうとする素振りもない。太吉は小さく舌打ちすると娘の腕を掴み乱暴にその体を引き起こした。「死にてえのか、馬鹿」
祠から無理矢理に引き摺り出したところで、娘がようやく正気付いた様子で振り返った。
祠の中はもうすっかり火の海だった。炎は容赦なく床面を舐め尽くし、柱などは今にも崩れ落ちそうだ。
燃え上がる祠を茫然自失の体で見つめる娘に太吉は目を移した。祠の中では気付かなかったが、髷は歪み鬢は解れ、着物の襟も裾も乱れに乱れた有様で、これはどう見ても尋常な状態ではない。
太吉は自分の着ていた印半纏を娘の肩に掛けてやると、野次馬の目から庇うように娘の前に立った。
その後の町方の調べで、娘の名はお紺と知れた。太吉が見て察した通り、祠の中で破落戸に手籠めにされ掛けていたらしい。幸いなことに偶々通りかかった何処ぞの親父に助けられたそうだが、逆上した破落戸と親父との間で揉み合いになった挙げ句匕首で互いを刺して二人とも死んでしまった。両者の諍いの弾みで灯してあった蝋燭が倒れて火が出たと云うのが事の顛末のようだ。
焼け跡から見つかった亡骸を検分した医師の話でも刺し傷が元で二人が死んだのは確かなようで、お紺の話にも特におかしな所は見られないことから火事の件についてはそれで片が付いたのだが、今度はお紺の処遇が問題になった。手籠めにされそうになったうえ目の前で二人もの人間が殺し合うという恐ろしい目に遭ったせいか、お紺は自分の名前以外のことを奇麗さっぱり忘れてしまっていたのだ。
鉄漿付けも引眉もしていないので年は十七くらいで亭主持ちではないことまでは察せられるが、それ以上のことは何一つ判らない。
お紺本人が悪さをした訳ではないので番屋に留め置くこともできないし、どこに住んでいるか判らないので家に帰すこともできない。そこでなぜか太吉にお鉢が回って来てしまった。町方の同心が「一度助けたからには最後まで面倒を見るべきだ」などと云って太吉に押し付けてきたのだ。
太吉は修行中に母親も亡くしていたから、男の一人住まいに年頃の娘を預けるなんて無茶苦茶だと断ったのだが、お役人は聞く耳を持たなかった。「お前が預からぬとなるとこの娘は行く宛もなく路頭に迷うことになるな。可哀相に」などと云われてしまっては、引き受けないわけにはいかなかった。
そんな次第で太吉は裏長屋でお紺と暮らす羽目になった。事情を知った長屋のかみさん連中には「全く太吉っつぁんは人が好いんだから」と笑われたが、太吉にとっては笑い事では済まされない。
しかも、焼け出された時には煤だらけで判らなかったが、湯屋に行って煤を落とし損料屋で借りてきた縹色の小花柄の袷を着て髪も奇麗に結い直したお紺は、滅法界もなく可愛かった。特別別嬪と云う訳ではない。ではないが、目元には何んとも云えない愛嬌があるしふっくらとした唇も愛らしく、ふとした仕草の端々に若い娘ならではの瑞々しい色気が感じられて、まだ若い太吉にとっては真に目の毒としか云い様がない。
お紺を預かった翌日、隣に住む棒手振りのかみさんであるおすみにお紺の着る物の面倒を頼んで仕事に出掛け、帰ってお紺を見た時にはその変わりように心底驚いた。狼狽える余り、おすみの「いつまでも間抜けな顔してないで別嬪さんに何んとか云っておやりよ」と云う言葉に思わず「好い色の着物だな」などと返してしまい、「気の利いたことの一つも云えないのかい、この唐変木」と呆れられてしまった。
裏長屋の太吉の塒は九尺二間の一部屋なので、夜眠る時には枕屏風を部屋の真ん中に置いて仕切りにし、奥側にお紺を寝かせた。自分がいるせいで窮屈な思いをすることをお紺が頻りに済まながるので、その度太吉は「どうってことねえよ」と答える。「よそじゃこの部屋に夫婦と子どもが寝起きしてるところもあるんだ。二人くれえならまあ普通だ」
勿論よそでは部屋を二つに仕切ったりはしない訳だが、それを云うとお紺がまた気にするに違いないので黙っておく。呑み込んだ言葉の代わりに、太吉はお紺のことを聞いてみる。
「あれから何か思い出したかい。二親のことだとか、住んでた家のことだとか」
「いえ、何も」
お紺が短く返すのも毎度のことだ。太吉がお紺を預かってそろそろ十日も経とうかというのに、お紺は何一つ思い出す様子がない。それだけ怖い思いをしたと云うことか。それとも、と太吉は顔を顰めた。思い出したくもないような家族だったんだろうか。
火事で死んだお父っつぁんと数年前に病で死んだおっ母さんの顔をぼんやりと思い浮かべながら、早くに亡くしたとは云え二親のことをこうやって思い出せるおれは、存外仕合わせ者なのかもしれねえなと太吉は思うのだった。
朝はこれまで仕事の前に自分で飯を炊いていたのだが、お紺が来てからというもの、毎朝飯と味噌汁を拵えてくれるようになったので、それに香の物や振り売りから買ったお菜を添えて腹拵えをしてから仕事に出掛ける。箱膳を並べて朝食を採る太吉とお紺を見て、隣のおすみは「まるで飯事の夫婦みたいだねえ」と笑う。
「うるせえや、わざわざそんな戯言を云いに朝っぱらから押し掛けたのかよ」
太吉がぶっきらぼうに吐き捨てると、おすみは「悪いけどあたしもそこまで暇じゃないよ」と笑顔のまま懐から何やら包みを取り出し太吉に手渡した。包みを開くと、中から赤い玉簪が顔を出した。
「あたしの若い時分ので悪いけど、お紺ちゃんにどうかと思ってさ」
向かいに座っているお紺に目を遣る。云われてみれば、塗りの櫛こそ前髪に挿してはいるが簪を付けていない。きっと火事のどさくさで失くしたんだなと太吉は合点した。
「好かったな」お紺にそう云うと、太吉はおすみに向き直り頭を下げた。「ありがとよ」
だが、おすみは一向に立ち去ろうとしない。それどころか、太吉にやたらと目交ぜしてくる。さすがの太吉も、これはおれが挿してやるよう遠回しに伝えているんだなと気付き、目配り一つで動かされるのは内心面白くは無かったが、おすみの指図通りにしてやることにした。
ひょいと手を伸ばしてお紺の髷の根元に玉簪を挿す。不思議なことに簪一つで随分と感じが変わるもので、まるでお紺の髪に真っ赤な花が咲いたように見えた。
「似合うぜ」自ずと太吉の口を衝いて出た言葉に、お紺が恥ずかしそうに頬を染めた。
「おやまあ、さすが色男は云うことが違うねえ」自分がそう仕向けたくせに大げさに云い立てるおすみを太吉が軽く睨め付けると、「どうやらお邪魔みたいだから、あたしはこれで退散するとするよ」とおすみは出て行こうとした。
「おれもそろそろ出掛ける時間だ」太吉も箱膳を押し遣って立ち上がった。印半纏を羽織って道具箱を担ぎ、草履を突っ掛けて部屋を出ようとすると、お紺が土間まで見送りに出てきた。
「行ってらっしゃい」
「おう、行ってくるぜ」
お紺の見送りの声を背に歩き出すと、一足先に外に出ていたおすみがにやにやしながら話し掛けてきた。
「太吉っつぁんに簪貰って、お紺ちゃん喜んでたねえ」
「おれがやったんじゃねえ、呉れたのはおすみさんだろうが」
「判っちゃいないねえ、あんたが挿して呉れたってのが大事なんじゃないか」
呆れたように首を振るおすみを見ながら胸の裡で呟く。判ってねえのはそっちの方だ。お紺はお役人からの預かり物で、いつかはここを出て行く身だ。しかも悪い男に非道いことをされ掛けたと来れば尚のこと、とてもおれが簡単に手を出していい相手じゃあねえ。
まったく、おれにどうしろってんだ。太吉は一つ息を吐いて空を仰いだ。
その日の仕事帰り、太吉はお紺を押し付けた町方同心が小者を連れて市中を見廻っているところに出会した。
「旦那」声を掛けたのが太吉であることに気付くと、同心は足を止めた。
「おお、お前か。どうだ、お紺は元気にしておるか」
「ええまあ」取り敢えず肯いてから、太吉はずっと気に掛かっていたことを訊ねた。「それより、そっちのお調べの方はどうなんです。お紺の身元は判りそうですかい」
「それなんだがなあ」同心は月代をぽりぽりと掻きながら「どうもうまくいかぬのだ。祠の廻りで聞き込みをさせたが、お紺を知っている者は見つからぬ。自身番でも聞いて廻ってはいるが、それらしい話は一つも出てこない。見つかった場所が場所だけに、もしかするとあの娘は稲荷神の使いではないか」
何をいい加減なことを、という太吉の思いを察してか、同心は慌てて云い繕う。「無論、今のは冗談だ」
「当たり前です」太吉はむっとして云い捨てた。
「これはおれの勝手な想像だがな」と断りを入れた上で、同心が考えを述べる。「これだけ探しても何んの手掛かりも見付からないと云うことは、お紺の家族はもうおらぬということか、若しくは」
「若しくは、何んです」
「百姓の中には、年貢を払うために娘を売る者もいると聞く。あるいはお紺も」
太吉はぎょっとして聞き返した。「売られていくところだったって云うんですかい」
「かも知れぬという話だ。そうだとすると、家族が名乗り出ることも考え難い。そう考えると平仄が合うのだ」
太吉は黙り込んだ。そうであって欲しくない。お紺の帰りを待ち侘びる家族がどこかにいて欲しい。帰る場所がどこにもないのだとしたら、お紺があんまり可哀相だ。
難しい顔をする太吉を見て、同心は宥めるように云った。
「まあ、お紺がそのうちひょっこり思い出さないとも限らぬ。余り考え込むな」
同心の言葉に太吉は力無く肯いた。
同心と別れた後、太吉は真っ直ぐ塒に帰る気になれず、煮売り酒屋で酒を呑んだ。太吉は元々酒が強くない。一合も呑めば酔う位だが、この日はつい酒を過ごしてしまい、気付くと既に三合程も呑んでいた。いくら帰り難くても、長屋の木戸が閉まる夜四つには帰らない訳にはいかない。ふらつく足で店を出る。
木戸をくぐり自分の塒に着くと、太吉はお紺を起こさないよう静かに障子を開け中に体を滑り込ませた。酒のせいで喉が渇いていたので、土間の水瓶から柄杓で水を掬うと、直接口を付ける。そうしてようやく一息吐いたところで、小さく声を掛けられた。
「太吉さん」
振り向くと、襦袢姿に袷を引っ掛けただけのお紺が体を起こして太吉を見詰めていた。太吉は慌てて目を逸らした。
「すまねえ、起こしちまったか」柄杓の水を一気に呷る。
それには答えず、お紺が静かに云った。
「あたしがこんな事を云うのは烏滸がましいとは思うけど、あんまり呑むと体に毒よ」
「判ってる」太吉は溜息を吐いた。「そんな事は判ってるよ」
「だったら何故」
「呑まなきゃあ眠れねえ時だってあるんだよ」
お紺がはっと息を呑む気配がした。「あたしのせいね。あたしがここにいるせいで」
「そうじゃねえ」太吉は思わず声を荒げた。「いや、そうだけどそうじゃねえんだ」
もう一口水を飲み、何んとか言葉を選ぶ。「今日、仕事の帰りに厭な話を聞いた。とても眠れそうになかった。でも、眠らずにお前と一つ部屋にいたら、あの男みたいに罷り間違っておかしな事を為出かしちまうかも判らねえ。だから、酒の力を借りてでも眠りたかったんだ」
えっ、とお紺が声を上げた。
お紺の方を見ないまま、太吉は障子に手を掛けた。「今云ったことは忘れてくれ。おれはちょっと頭を冷やして来るから」
障子を開けて外に出ようとする太吉の背中に、温かい物が触れた。起き出してきたお紺がしがみついてきたのだ。
「おれの話を聞いてなかったのか。お紺、手を離しな」
「太吉さんはあの男とは違うよ」
「お前に何が判るのよ」
「判るの。太吉さんはあの男みたいにはならない。だって、あたしは太吉さんが好きだから」
息を呑んだ拍子に喉を洩れてひゅうっとおかしな音を立てた。
「お前は思い違いしてる。火事の時におれが助けたのを恩義に感じていて、それを勘違いしてるだけだ。それに、お前はそのうち家族のことを思い出してここを出て行く身だ」
「行かない。何日経っても誰も探しに来ないのは、帰る所なんてないからだってことぐらいあたしにも判る。それにもし家族がいたとしても、あたしはここで太吉さんと家族になりたいの。お願い、あたしを太吉さんのおかみさんにしてください」
太吉は思わず振り返った。顔を覗き込もうとすると、お紺が顔を赤くして俯いた。
「勿論、太吉さんが厭じゃなかったら、だけど」
「厭なもんか。厭な訳あるか」太吉はお紺の手を解いてその小さな体を抱きしめ掠れる声で囁いた。「本当にいいんだな」
お紺が腕の中で小さく肯くのが判った。お紺の体の温もりを腕に感じながら、これでもう飯事は返上だなと太吉は独りごちた。
次の日の朝、太吉が仕事に出掛けてから、お紺は火事のあった稲荷神社に行ってみた。急拵えで建てられた祠は、また誰かが入り込むことの無いように随分と小さな物になっていた。
お紺は祠に手を合わせながら、これまでの事を思い返していた。
お紺は元は捨て子だった。ここではない、別の何処かのお稲荷様の祠の前に置き去られていたのを、お父っつぁんに拾われた。お父っつぁんはあちこちを流れ歩く独り働きの盗人だった。
お父っつぁんと一緒に、あちこちの祠や破れ寺を渡り歩いてお紺は育った。盗人ではあったけど、お父っつぁんはお紺には優しかった。「お前ェはお稲荷様のお使いだ」いつもお紺にそう云っていた。「だからお紺と名前を付けたんだ。そうすりゃあ、誰かがお前ェの名を呼ぶ度にお稲荷様はお前ェに気付いて守ってくださる」
お父っつぁんとあの祠にいた時、急に酒に酔った破落戸が入ってきて、お紺を見付けて乱暴しようとした。お紺を助けようとしたお父っつぁんは、あの男に匕首で刺された。あんな破落戸に好い様にされるくらいなら舌を噛んで死んでやろうと思ったけど、せめてその前に一泡吹かせたかった。だから、諦めたふりをして相手が油断した隙に、簪で喉を突いてやった。あの時の男の驚いた顔ときたら様ァ無かった。
そうしたら、いつの間にかお父っつぁんがあいつの後ろに立ってた。胸に刺さったままだった匕首を自分で引き抜いて、男の背中を刺してた。お父っつぁんが乗っ掛かるようにして刺したからか、男は直ぐに動かなくなった。お父っつぁんは匕首を男の背中から引き抜くと、お紺が簪で付けた傷の上にも匕首を刺した。そうやって、お紺のした事を隠してくれた。
全部終わると、お父っつぁんはお紺を見てにいっと笑って云った。「見ねェ、お父っつぁんの云った通り、お稲荷様が守ってくださったろ」
お父っつぁんは笑った顔のまま倒れた。倒れた拍子に蝋燭が倒れて祠に火が付いた。でも、お父っつぁんはお紺にこう云い聞かせるのを忘れなかった。
「お父っつぁんみてェなけちな盗人と関わりが有ると知れたら、お前ェの為にならねえ。おれの事ァ知らねェ小父さんだと云え。で、他の事は何もかも忘れた事にするんだ。いいな、何もかもだ」
お紺は泣いた。身も世もないくらい泣いてお父っつぁんに取り縋った。「お父っつぁん、厭だよ。あたし、お父っつぁんを知らない小父さんになんかしたくないよ」
「駄目だ、お父っつぁんの云う事を聞くんだ。それがお前ェの為なんだ。それに、知らねェ小父さんなのは本当の事だ、嘘にはならねェ」そう云うと、お父っつぁんは残っていた全部の力で、お紺を祠の扉の方に押し遣った。そこに、太吉が飛び込んできたのだ。
「お父っつぁん」とお紺は聞こえないくらい小さな声で呼び掛けた。「あたし、あの時助けてくれた太吉さんのおかみさんになるよ。お父っつぁんと同じで、あたしを押し付けられても厭な顔一つしないいい人なんだ。お父っつぁんの云った通り、何もかも忘れたふりをしてこれからも生きていくよ」
手を合わせるお紺の頬にぽつりと冷たい物が落ちてきた。お天道様は出ているのに雨が降っている。
お紺は、昔お父っつぁんの云っていた事を思い出した。「お紺、こういうのを狐の嫁入りって云うんだぜ。お前ェが嫁に行く時も、きっとこんな天気になる。なんたって、お前ェはお稲荷様のお使いなんだからよ」
雨粒を落とし続ける空を見上げると、お紺はにっこり微笑んだ。「ああ、お父っつぁんの云った通りになったね」
狐の嫁入り ─終─
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