With You 〜顔のチカラ〜



 ──写真の中のその人は、いつもやさしく微笑んでいた。
 その笑顔は、どんな時も、私に勇気を与えてくれた。


 私がはじめてその写真を目にしたのは、十四歳──中学二年生の夏だった。

 当時、私は学区のはずれに住んでいて、毎日片道四十分以上の時間をかけ、歩いて中学に通っていた。できることなら自転車で通学したいところだったけれど、あいにくなことに、自転車通学は校則で禁止されていたのだ。それに──学校までの道はそのほとんどが坂道だったから、仮に自転車で通えたとしても、それはそれで大変だったにちがいない。
 そんなわけで、私たち──私と、比較的近所に住んでいる友人数名──は、毎朝最寄りの駅で待ち合わせて、そこから一緒に学校に行くことにしていた。

 その朝も、私は急ぎ足で待ち合わせ場所に向かっていた。私の家から待ち合わせ場所に行くためには、駅構内を通り抜けなくてはならない。いつものように、券売機の前を横切り、改札口の脇を通り過ぎようとして──私はその存在に気づいた。
 改札の近くに設置されたゴミ箱の傍に落ちていたそれは、なにか紙切れのように見えた。場所が場所だけに、最初は、誰かが落とした切符か定期券かとも思ったけれど、それにしては、ちょっとサイズが大きいような気がした。
 私は、ゴミ箱に近寄ると、なんの気なしにそれを拾いあげた。そして──ようやく、それが写真であることに気がついた。
 そこに写っていたのは、二十代半ばとおぼしき一人の青年。抜けるような青空をバックに、明るい笑顔をこちらに向けている。なんということもない、ごくありふれた、ただのスナップ写真。しかも、あきらかに素人が撮ったものらしく、ややピンぼけ気味だ。
 でも。なんだか、とてもいい写真だと思った。それは、きっと──写真の中のその人の笑顔が、本当にやさしそうだったから。彼の表情から、写し手に対するあたたかな愛情のようなものが感じられたから。
 だから──私は、その写真を落とし物として届けたりはせず、こっそり鞄の中にしまいこんだ。ゴミ箱の傍に落ちていたんだから、きっと誰かが捨てようとしたものなんだ。いらなくなった写真なんだ。だったら、私がもらったって、別にかまわないよね? 若干の後ろめたさを感じている自分に、そう言い訳しながら。

 そして──。

 それから、十年が過ぎた。
 十年という年月は、様々な出来事を私にもたらした。失恋して泣いた日もあったし、受験で悩んだりもした。友だちとケンカしたり、進路のことで両親と意見が対立したり、バイト仲間とのつきあいがうまくいかなくて苦しんだり。いろんな挫折を味わい、妥協することを覚え……いつしか私は大人になっていた。
 その間の私の心の支えとなっていたのは、あの日拾った写真の中の男の人の笑顔だった。
 あの日以来、私は折に触れ、例の写真を眺めるようになった。つらいことがあったときも、あの人の笑顔を見るだけで、心はなぐさめられ、励まされるような気がしたし、うれしいときには、あの人が一緒に喜んでくれているように思えた。
 あの人の笑顔には、そんな不思議な力があった。少なくとも、私にとっては、そうだった。
 でも──時々、むなしく感じることもあった。あの人の笑顔は、私に向けられたものではないから。あの笑顔は、写真を撮った人物──たぶん、あの人の恋人──に対して向けられたものだと、わかっていたから。
 そのことを考えると、いつも胸が苦しくなった。この笑顔が、私だけのものだったらいいのに。そう思った。
 その感情は、恋に、とてもよく似ていた。

 今の私は、二十四歳。四年制大学の文学部を卒業し、小さな会社の情報部門に勤め始めて、今年で二年目になる。後輩もでき、ようやく仕事が面白くなってきたところ。仕事の性質上、残業が多くて大変だけど、それなりに充実した毎日を過ごしている、つもり。そのつもり、なんだけど。
 私は、電車の座席に深く腰をおろし、小さくためいきをついた。
 今日一日のことを思い返すと、自分でも情けなくなる。そのくらい、さんざんな一日だった。
 朝は、目覚ましをとめて二度寝してしまい、あやうく遅刻しそうになった。なんとか始業時間には間に合ったものの、早めに出社して作成するはずだった報告書ができていなかったせいで、朝一番の会議用の資料がそろわなくて、課長に怒られた。気を取り直して仕事を始めたら、昨日何時間もかかってまとめたデータファイルを間違って消してしまった。
 ……最悪。私、何やってるんだろう。入社したての新人じゃあるまいし、なんでそんな初歩的なミスをするかな。
 自己嫌悪に陥る私に、直属の上司の片岡主任は、「ここのところ深夜残業が続いたから、疲れてるんでしょう。幸い急ぎの仕事もないことだし、今日は早めに帰りなさい」と言ってくれたけど……。
 疲れているのは、片岡主任だって同じなのに、主任はいやな顔一つせず、私のミスをフォローしてくれた。なのに、今日の私ときたら、ただでさえ忙しい主任の仕事を増やすようなことばかりしている。
 ……私、やっぱりこの仕事に向いてないのかな。根っからの文系人間の私が、こんな職種についたのが、そもそも間違ってたんだろうか。
 考えれば考えるほど、ますます落ちこんでしまい、私はまたためいきをつく。
 と──車内アナウンスが、まもなく電車が次の駅に到着することを告げた。
 次の駅が、私の降りる駅だ。駅から歩いて五分くらいの処にあるマンションに、私は住んでいる。両親と同居なので、夕飯のおかずの心配はあまりしなくていい。帰宅時間は、毎日たいてい十時を過ぎてしまうから、帰ってから夕食の支度をしなくてすむのは、本当に助かる。
 でも……今日は、まっすぐ帰る気分じゃない。お酒が飲めたら、飲んで憂さを晴らしたいところだけど、あいにく私はお酒が苦手だし……。時間もまだ早いから、駅ビルの中にある喫茶店でお茶でも飲んでいこうかな。そうぼんやり考えながら、私は重い腰を上げ、ドアの方へ向かった。
 やがて、徐々にスピードを落としていた電車は、静かに駅に滑り込み、止まった。
 かすかな振動と共に、扉が開く。と同時に、学生の集団がどやどやと乗り込んできた。この駅の近くに有名な進学塾があるせいで、この時間帯は授業を終えた学生で非常に混雑するのだ。
 人の流れに逆らうようにして、なんとか電車から降りた途端、私の背後でドアが閉まり、私はまたひとつためいきをつく。なんだか、今日はためいきばかりついている気がする。
 ホームを離れていく電車の音を背に階段を下りかけると、にぎやかな一団が、階段を上ってくるのに行き会った。どうやら、今の電車に乗ろうとして、途中であきらめたクチらしい。
 ホームへと向かう学生たちを横目に見ながら、改札口に続く階段を下りていく。肩を落として歩く私と違い、すれちがう学生たちはみんないきいきとして見える。授業のこと、友達のことなど、にぎやかに話す様子は、実に楽しそうだ。
 何年か前までは、私もあちら側にいたのに。
 上り階段と下り階段とを隔てる鉄柵が、学生と社会人を隔てる壁のように思えてしまう……。

 最後の段差を下りきると、前方に改札が見えてくる。
 十年前、写真を拾ったときにはまだ駅員さんが立っていたこの改札も、今では数台の自動改札機に変わっている。そのことにも、もうすっかり慣れてしまったけれど。駅も、時の流れとともに変わっていくのだ。そう思うと、少しさびしい気もする。
 そんなことを考えながら、定期入れを鞄から取り出そうとして、大変なことに気づいた。
 ──定期入れがない。
 奥の方に紛れているのかも、と鞄の中を探ってみたけれど、定期入れはどこにも見あたらない。
 ……嘘。ついこの間、半年分の通勤定期を買ったばかりなのに。一月も経たないうちになくしたっていうの?
 六ヶ月分の定期代がいくらだったか考えると、ショックで気が遠くなりそうだ。もう一度定期券を買い直したら、大赤字になってしまう!
 焦る気持ちを抑えて、この数分間の自分の行動を思い返してみる。電車を降りてからの記憶をたどってみると、思い当たるふしがなくもなかった。
 ……電車を降りるときに落としたのかもしれない。あの時、ホームは学生でごった返していたから、人に押されたはずみで、鞄からこぼれ落ちてしまったのかも。
 私は、あわてて踵を返すと、今下りてきたばかりの階段を駆け上がった。
 ホームに戻り、あたりを見回す。さほど多くはない電車待ちの人々の足元も注意して見てみたけれど、それらしいものが落ちている様子はない。
 もう、誰かに拾われた? それとも、電車の中か乗車駅で落としたんだろうか……。
 当てがはずれてがっかりしたけれど、いつまでも気落ちしてもいられない。
 とりあえずは、駅員さんに事情を説明しなくちゃ。そうしたら、乗車駅に連絡を取ってくれるだろう。もしかすると、もう誰かが届けてくれているかもしれないし……。
 そう考えて改札口に向かいかけて、ぎくりとする。落としたのが、定期券だけではないことに思い至ったからだ。
 ──写真。定期入れに挟んであった、一枚きりの、あの人の写真。
 自分の顔から血の気が引いていくのがわかった。
 定期は、最悪の場合でも、買い直せばそれですむ。もちろん、懐はかなり痛むけど、他の出費をきりつめるなりすれば、まあなんとかなる。でも、あの写真は……。偶然拾ったものだから、二度と手に入れることはできないのに。
 定期入れなんかに、大事な写真を入れておくんじゃなかった。もっと安全なところにしまっておくべきだったのに。やっぱり、私はバカだ。
 悔やんでも悔やみきれない思いで、私は唇をぎゅっとかみしめた。
 と、そのとき──。
「もしかして、これを探してるんですか?」
 唐突に、背後から声をかけられた。物思いに耽っていて、まったく気づかなかったけれど、いつの間にか、背後に人が立っていたようだ。
「え……?」
 反射的に振り返った私の目に、見慣れた赤い定期入れが飛び込んできた。
「あ! それ、私の──」
「やっぱり。なにか捜し物をしているようだったから、そうじゃないかと思ったんです」
 拾ってくれた人にお礼を言おうとして顔を上げて──私は息をのんだ。なぜなら……。十年間見つめ続けた、あの写真そのままの顔が、そこにあったから。
 一瞬、写真からあの人が抜け出してきたのかと思った。そのくらい、そっくりだった。ううん、そっくりなんてものじゃない。そこに浮かぶ表情こそ違うけれど、そのやさしげなまなざしは、あの人と同一人物としか思えなかった。
 驚きで言葉を失った私に、その人は不思議そうな顔をする。
「……あの、僕の顔に、なにかついてますか?」
「そ、そういうわけじゃ……」
 私はあわてて首を振る。
 まさか、昔拾った写真の人とそっくりなので驚いた、なんてこと、言えるわけがない。
「あの、拾っていただいて、ありがとうございました」
「いえいえ。それじゃ、これどうぞ……と言いたいところだけど」
 その人は、ちらりと手の中の定期入れに目を走らせた。
「一応、念のために。失礼ですが、お名前は?」
 なぜ急にそんなことを聞くのだろうと不思議に思ったけれど、すぐに納得した。本当に私の落としたものかどうか、確認するために違いない。確かに、結構な額面の定期券を、自己申告を鵜呑みにして簡単に渡してしまうわけにはいかないだろう。
 その問いに答えようと、口を開きかけた時、次の電車の到着を告げるアナウンスが聞こえてきた。
「……ここにいると、乗降客の邪魔になりそうですね。ちょっと向こうに場所を変えましょうか」
 その人が指さしたのは、ホームの端のベンチだった。その後ろには、青い空を写した大きなポスターが貼ってある。
 私は軽くうなずき、その人に従って移動した。

「──さて」
 急ぎ足で改札口へと向かう人波を横目に、その人が口を開いた。
「改めて、名前を聞いてもいいですか?」
「はい。──樋口理見です。さとみは、『理科』の『理』に、『見る』の『見』と書きます」
「樋口理見さん。うん、間違いないですね」
 満足そうにうなずくと、その人は定期入れを私に手渡してくれた。
「こんな大事なもの、もう落としちゃだめですよ」
「はい。本当にありがとうございました」
 受け取った定期入れを鞄にしまおうとして、ふと不安が胸をよぎった。
 ……中の写真を見られていたら、どうしよう。
 落とし主の身元を知るために、中を見ることだって、十分に考えられるもの。もちろん、例の写真は他のカード類の裏に隠してあるけど、中身を全部チェックしたとしたら、簡単にみつかってしまうに違いない。
 あれを見られたとしたら……自分の(正確には自分にそっくりな人の、だけど)写真を後生大事に持ってる女なんて、絶対変に思われているに決まってる。ど、どうしよう。
 きまりの悪さに顔を上げることもできないまま、おそるおそる尋ねてみる。
「あの、失礼ですけど……中、見ました?」
「いえ。そうする前に、困った顔できょろきょろしてるあなたが現れたんで、中は見てません」
 それを聞いて、私はほっとした。そんな思いが表情にも出てしまっていたのか、その人がくすりと笑う。
 その場を取り繕うために、私は急いで話を逸らす。
「こ、これ、いったいどこに落ちてました?」
「ああ、階段を上りきったところにあるベンチの前あたりです。鮮やかな赤が目についたので、近寄ってみたら定期入れで。落とした人は困っているに違いないから、駅長室に届けようかと思ったところに」
「私があわてふためいて駆け上がってきたってわけですね」
 ということは、やっぱり電車から降りたときに落としたんだろう。確かに、あの時は私もぼんやりしていたし。これからは、気をつけなくちゃ。
 自分のことで頭がいっぱいだった私は、そこではじめて相手の状況に思い至った。
「……あ。そのせいで、今の電車を逃しちゃったんですよね。ご、ごめんなさい」
 恐縮しきっている私に、その人は鷹揚に微笑んだ。
「いや、大丈夫です。この時間なら、本数も多いし」
「でも……」
 そうは言っても、私がこの人を足止めしてしまったことにかわりはない。それに、電車一本の違いで、乗り換えに大きく影響することだって、十分考えられるのだ。
「じゃあ、せめてものお詫びに、なにかおごります。といっても、自動販売機の飲み物ですけど。コーヒーでいいですよね?」
 そう言うと、私は返事も待たずにホームの中程にある自動販売機コーナーに向かって駆けだした。

 缶コーヒー二本を抱え、息を切らせて戻った私を見て、その人はまた少し笑みを浮かべた。
「……そんなに気にしなくてもいいのに」
「でも、それじゃ私の気が済みませんから。それに、半年分の定期券を買い直すことを思えば、缶コーヒーくらい安いものです。……むしろ、安すぎて申し訳ないくらい」
 私が差し出した缶コーヒーを、その人は、こころよく受け取ってくれた。
 それからしばらく、私たちはベンチに座り、黙ってコーヒーを飲んでいた。
 先に口を開いたのは、その人の方だった。
「──『ことわりを見る』って、いい名前ですね」
「えっ?」
 一瞬、何のことかと思った。少し考えて、ようやく自分の名前のことを言われているのだと気がついた。
「ああ……私の父が、ものの道理をきちんとわきまえた人間になるようにと、名付けたそうです。もっとも、父に言わせれば、今の私は完全に名前負けだそうですけど」
「なるほど」
 と、その人は何か思いついたように言葉を続けた。
「僕は、久我哲弥というんです。『哲学』の『哲』に、『弥生』の『弥』。『理科』と『哲学』。学問つながりですね」
「本当」
 私たちは、顔を見合わせて笑った。

 その後の会話から、久我さんが私より二歳年上で、この近くの進学塾の講師をしていることがわかった。担当教科は、哲学、ではなくて、数学なのだそうだ。
 なんだか、不思議な気分だった。今まで写真の中でしか知らなかった、手の届かない相手だと思っていた人と出会い、そのうえこうして会話まで交わしているなんて。それも、十年前にあの写真を拾った、この駅で──。
 でも。よく考えたら、あの写真の人物が久我さんであるわけがないのだ。だって、私が写真を拾った十年前には、久我さんもまだ高校生だったはずだから。
 だけど、それにしてもよく似ている。今の久我さんを撮った写真だと言っても、通用するくらいだ。
 もしかしたら、あの写真の人物は、久我さんの兄弟か何か……?

 そんなことを考えているうちに、次の電車の到着アナウンスがホームに流れた。
「今日は、コーヒーをごちそうさまでした」
 空き缶を捨てるために立ち上がった久我さんに、私は思いきって訊いてみる。
「あの……おかしなことを聞きますけど……久我さんって、お兄さん、いますか?」
「え?」
 案の定、怪訝そうな顔をされてしまった。
 だからって、正直に本当のことを言うわけにもいかないから、しどろもどろになりながら、なんとか言い訳をする。
「あ、あの、十年くらい前に、私、今の久我さんにそっくりな人に会ったことがあるんです。だから、お兄さんか誰かだったのかなって、思ったんですけど……」
「うーん……残念ながら、僕には兄弟はいないんですよ。十年前じゃ、僕の父ってこともないだろうし。親戚の中にも、そんなによく似た人はいないですね」
「そう……ですか」
 だったら、あの写真は、単に他人の空似なんだろうか。そんな偶然って、あるだろうか。
 でも、実際私の手元には、写真があるわけだし……。
 ちょうどそのとき、電車がホームに入ってきた。先頭の車両が目の前で止まり、開いた扉から久我さんが中に乗り込む。ホームに残された私は、成り行き上、見送るような格好になる。
「今日は、本当にありがとうございました。おかげで助かりました」
「いえいえ。こちらこそ、ごちそうさまでした。それじゃ」
「……はい」
 警笛の響きとともに、目の前で扉が閉まった。
 扉の窓越しに、久我さんが軽く会釈する。私も、あわてて頭を下げる。
 そして、電車が動き出し、久我さんの姿がだんだんと遠く、小さくなっていった。

 遠ざかっていく電車をいつまでも見送りながら、私は、自分の胸の奥からわきあがってくる感情を抑えきれず、戸惑っていた。
 ……どうしよう。私、あの人のことが、好きだ。

 おかしな話だと、自分でも思う。私は、一目惚れ、なんてするようなタイプでは、断じてない。なのに、ついさっき知り合ったばかりの人に、恋をしてしまだうなんて。
 そんなこと、ありえない。ありえないはず、なのに。
 どうして、こんなに胸がときめくんだろう。あの人のことを思うだけで、どうして鼓動が激しくなるの?
 ……私、いったいどうしてしまったんだろう。

 それからというもの、私は今まで以上にぼんやりすることが多くなった。
 気がつくと、久我さんのことばかり考えている。久我さんの笑顔や穏やかな声を思い出しては、また会えたらいいのになんて考えている。
 おかげで、仕事もほとんど手につかない。これは困る。非常に困る。だけど、自分ではもう、どうすることもできなくて。
 そんな気持ちを抱えたまま、ただいたずらに時間だけが過ぎた。

 一週間後、私はあの日と同じ時間の電車に乗っていた。先週と同じように、何度もため息をつきながら。
 結局、一週間経っても、私の久我さんへの思いは変わらなかった。感謝の気持ちを、恋とはき違えているだけかもしれない。最初はそう思った。それなら、時間の経過とともに気持ちも薄れていくだろうと。
 でも、変わらなかった。むしろ、思いはかえって強くなったような気がする。
 私は、どうしたらいいんだろう。いったい、どうしたいんだろう。
 さんざん考えた末、この電車に乗ることにしたのだ。同じ曜日の同じ電車に乗っていれば、また久我さんに会えそうな気がしたから。

 やがて、車内アナウンスが、私の降りる駅の名を告げた。
 私は、ほとんど無意識のうちに、鞄の中から定期入れを取り出す。
 そのとき不意に、駅前のレンタルビデオショップの会員期限がそろそろ切れそうだったことを思い出した。期限を確認しようと、定期入れの中の会員カードを取り出す。その拍子に、裏側に挟んであった写真が一緒にこぼれ出て膝に落ち、私の目に飛び込んできた。
 写真の中の、あの人の笑顔。この十年間、私が見つめ続けてきた、やさしい笑顔。
 ──それを見た瞬間、自分のこの思いに対する答えが出た気がした
 ……そうだ。なにも、思い悩むことなんてなかった。会ったばかりなのに、なんて考える必要はなかったんだ。
 だって私は、あの笑顔に、十年前から恋をしていたんだから。
 一週間前じゃない。もう十年も前に、私のこの恋は始まっていたんだ。

 定期入れと写真を鞄に戻し急いで席を立つと、私は先頭車両に足を向けた。
 早く、早く──。
 はやる心に急き立てられ、ほとんど走るような勢いで、車両を移動する。いったいなにごとかというような周囲の視線も、今はまったく気にならない。
 先週、久我さんと一緒にコーヒーを飲んだ、あのベンチ。あそこに、一刻も早く戻りたかった。あの場所から、もう一度やり直したかった。そこに、なにがあるとしても。なにも、なかったとしても。
 ようやく先頭車両にたどり着いた時には、電車はすでにホームの端に到達していた。
 息を整えつつ扉のそばに立ち、窓からホームを眺める。壁の広告が、柱が、駅名表示板が、ゆっくりと窓の外を流れていく。
 そして。
 あの青いポスターを背にしたベンチが視界に飛び込んできて、そこに人影を認めた瞬間、私の胸は高鳴り始めた。
 ──いた。いてくれた。
 ベンチに腰掛けたあの人が、久我さんが、こちらを見つめていた。窓越しに、二人の視線が合う。
 久我さんが、静かに立ち上がった。と同時に、かすかな振動と共に電車が止まり、目の前の扉が開く。
 降車する人の流れになかば押し出されるように、私は久我さんに歩み寄る。
 背後で扉が閉まる気配がして、電車が走り去っても、私たちは互いを見つめ続けていた。
 もう一度会いたいと願って同じ電車に乗ったくせに、私は目の前に久我さんがいるという事実が信じられずにいた。久我さんの方もまた、少なからず驚いているようだった。
 しばらくの沈黙の後、私は思い切って口を開いた。
「どうして、ここに……?」
 久我さんが驚きの表情を崩して、ふっと頬をゆるませた。
「──ここに来れば、また会えるような気がして。でも、まさかこの車両に乗っているとは思わなかった」
 その言葉に、とくんと心臓が音を立てた。
 もしかして。久我さんも同じように、私に会いたいと思っていてくれた?
 でも、次に久我さんの口から出てきたのは、意外な言葉だった。
「……君には、借りがあるから」
「え?」
「缶コーヒー。おごってもらったでしょう。あの借りを返したいと思って」
「ああ……」
 ふくらみかけていた私の期待は、急速にしぼんでいった。
 なんだ、そういうことだったんだ。私に会いたかったわけじゃなく、ただ単に、借りを返すために、私を待っていたんだ。
 勝手に妙な期待を抱いた自分がばかみたいで、無様に思えてくる。
「あれは、ほんのお礼の気持ちですから。借りだなんて、大袈裟な……」
 そんな私の落胆をよそに、久我さんは快活に続ける。その明るさが、今の私にはなんともうらめしい。
「そう言わないで。今日は、僕がなにかおごりますから」
「でも、そうしたら、今度はまた私がお返しをしなくちゃいけなくなります」
「じゃ、この次はまた君がごちそうしてください」
 ……だめだ。これでは、押し問答になってしまう。
 私は、ため息混じりに言葉を返す。
「……それじゃ、いつまでたってもきりがないですよ」
「そうですね」
 まったく動じない久我さんのその態度に、私は少し戸惑った。
「あの……?」
「そのつもりで言っているんですが」
「は?」
「これからも会おう、と、言っているつもりなんですが。通じませんでしたか」
 そう言う久我さんの表情に照れの色が混じっていることに、私はここではじめて気づき──うろたえた。
「ええと、あの……それは、つまり?」
「ああ……困ったな。はっきり言わないと、わかりませんか?」
「あ、いえ……わかる、気は、します」
「それは良かった」
 ほっとした表情を浮かべる久我さんの向かいで、私は、あまりに思いがけない展開にすっかり混乱していた。
 久我さんの言葉を胸の内で何度も繰り返し、確認する。私の勘違いでなければ、それは、その意味は──。
 自問の末、一つの結論にたどりついたとき、私の胸は再び大きく高鳴りはじめた。十年間の片想いが、今ようやく実を結ぼうとしているのだと気付いたからには、とても落ち着いてなどいられなかった。
 言葉を失い立ちつくす私に向かって、久我さんが静かに口を開いた。
「それじゃ、とりあえず外の喫茶店でお茶でも飲みましょうか。そして──まずは、君のことを教えてください。なにしろ、この前は僕の話ばかりでしたからね」
 そう言って、久我さんは笑った。あの写真と同じ──十年間見つめ続けてきた笑顔が、今、私の目の前にあった。


 ──写真の中のその人は、いつもやさしく微笑んでいた。
 その笑顔は、どんな時も、私に勇気を与えてくれた。

 そしてこれからは、写真ではなく、本物のあなたが──


With You 〜顔のチカラ〜 ─終─

あとがき

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