の迷宮



 その夏、藤子(とうこ)は母に連れられ、久しぶりに田舎の町を訪れた。母の生まれ育った片田舎の町へ行くのは、何年ぶりだろう。たしか、前に行ったのは中学二年の頃だから、三年ぶりということになるか。別に、嫌で行かなかったわけじゃない。ただ、母の故郷のその町は、気軽に行くには少し遠すぎた。三時間以上も電車にゆられることを考えると、億劫になってしまうのも、仕方のないことだった。
 なのに、今回はなぜ行く気になったのかというと、その日母の実家で母方の祖父の法事があるからだ。二十三回忌だそうだ。藤子が生まれた時には、すでにこの世の人ではなかったその祖父に対し、あまり大した感慨もないけれど、法事ならば親戚一同が集まることだろう。だとすれば、億叔父さんだって来るに違いない。そう思ったのだ。
 億叔父さんは、藤子の母の弟だ。定職もなくぶらぶらしていて、しようのない弟だと母は言うけれど、そんな叔父さんが藤子は大好きだった。
 母さんにはわからないのよ。億叔父さんは、本当に自由で気ままで奔放で、まるで猫みたい。それも、気位の高い血統書付きの。決して人のいいなりになんかならない。気にいらない人とは口もきかないし、やりたくないことは絶対にしない。そんな叔父さんの態度を嫌う人も大勢いるけれど、あたしはそんな叔父さんがうらやましい。自分もそんなふうにふるまえたら、どんなにかいいだろう。あんな人が自分の恋人だったら、どんなに素敵だろう……。
 叔父さんの奥さんになることが、小さい頃の藤子の夢だった。でも、それが決してかなうことのない夢なのだと気づくのに、大して時間はかからなかった。
 叔父と姪では、結婚はできない。法律の上でも、そしてなにより、道徳的に、それは絶対に許されないことなのだ。
 それに――叔父さんにはすでに奥さんがいたのだ。万里さんという、きれいな女の人。叔父さんもハンサムだから、丁度お似合いだとみんなが口をそろえて言う。でも、藤子はそうは思わない。
 だって、万里叔母さんって、なんだかおとなしすぎるんだもの。他の人達は、控えめでいい人だって言うけど、あれは控えめというより、単におどおどしてるって言った方が当たってる。いつもうつむき気味で、まったく生気がない。まだ二十代後半のはずなのに、若さってものがまるで感じられない。少年のようにいきいきしている叔父さんには、あんな人似合わない。あたしの方が、ずっと、ずっと……。
 藤子がそう思っているのを知っているのか、万里叔母さんは、本当に変な目で藤子を見る。藤子を恐れているような、怯えているような。少なくとも、叔母が姪を見る目では、決してない。そして、異常なまでに神経質な態度をとるのだ。藤子が近づいていくと、さっと逃げ出したり、会話の中に藤子の名がでると、突然黙りこんでしまったり。
 だからなおさら、藤子は万里叔母さんが嫌いなのだった。あまりにも大人気がなさすぎる。いくら藤子を嫌いだからって、姪に対してその態度はないんじゃないか。
 ……まあ、別にいいけどね。あんな人なんか、どうでもいいもの。叔父さんに会えさえすれば、あたしはそれでいい。
 
 母の実家にたどりついたのは、お昼過ぎだった。九時前には家を出たのに、やっぱり田舎は遠い。玄関のベルをならすと、祖母が二人を出迎えてくれた。
「美千子、藤子。久しぶり、よく来たね。さあ、早くお上がり」
 美千子というのが、母の名前だ。玄関を入ると、家の中のざわめきが聞こえてきた。かなり大勢集まっているらしい。廊下を歩きながら、母がたずねる。
「ちょっと遅くなっちゃったけど、もうみんな来てるの?」
「ああ、ほとんどそろってるよ」
「億叔父さんも来てる?」
 大あわてで藤子も聞いた。苦笑しつつ、祖母が答える。
「来てるよ。あの子も本当にしょうがないね。末っ子だからって甘やかしたのがいけなかったのかねぇ」
「今どこにいるの?」
「庭にいるよ。万里さんと一緒にね」
 藤子は急いで庭の方へと駆けだした。
「藤子! 先にみんなに挨拶してからよ。藤子!」
 母の声も聞かず、藤子は庭へまわった。田舎の家だから、庭は広い。少しばかり野菜を植えてある畑のそばをぬけると、赤い花の咲く花壇があり、そばにテーブルと椅子が置いてある。その椅子の一つに、億叔父さんは座っていた。万里叔母さんはその隣でテーブルに伏して眠っているようだ。
「叔父さんっ!」
 藤子は叔父さんに抱きついた。叔父さんも少し目を細めて、藤子を嬉しそうに見る。藤子が叔父さんを好きなのと同じように、藤子は叔父さんのお気に入りだった。
「藤子……久しぶりだな。一体いくつになった?」
「十七よ」
 それをきいて、叔父さんはいっそう目を細くした。
「あんなに小さかった藤子が、もう十七か。早いもんだな」
「そうよ。もうすっかり大人なんだから」
 藤子は本気でそう思っていた。もう結婚だってできる年齢なんだもの。だから、万里叔母さんさえいなければ、そして、二人が叔父と姪でなければ、億叔父さんの奥さんにだってなれるのに。
 その言葉をきくと、叔父さんはくすっと笑った。
「まだまだ子供だよ、藤子は」
「子供じゃないってば!」
 むきになって否定する藤子を、叔父さんは面白そうにみつめる。完全に子供扱いだ。
 藤子は少し悲しくなる。いくつになっても叔父さんにとってあたしは小さな姪っ子でしかないんだわ。きっと、あたしが二十歳になっても三十歳になっても、それはずっと変わらない。
 ……どうして叔父さんなんだろう。どうして赤の他人として出会えなかったんだろう。もしただの男と女として出会えていたら、どんなことをしてでも、億叔父さんを手に入れてみせるのに。どんな卑怯な手段を使ってでも、万里叔母さんから叔父さんを奪ってみせるのに。
 考えているうちに、涙がこぼれそうになり、藤子はそっと目を伏せた。
「藤子? 泣いてるのか?」
 叔父さんが藤子の顔をのぞきこむ。藤子はあわてて顔をそむける。
「違うわ。太陽が眩しすぎて、目が痛いだけ」
 それは嘘。眩しいのは、そう、と答える叔父さんの笑顔。少年のようにいたずらっぽい光を宿した瞳。もしもこの輝きが手に入るのなら、地獄におちてもかまわないのに。
 夏の陽射しは強すぎて、藤子の思考能力を低下させる。視界の端に見えかくれする、名も知らぬ真っ赤な花の色が、藤子の理性を狂わせる。ぎらぎらと照りつける太陽。頭がぼーっとして、もう……なにも考えられない。
 藤子は汗ばんだ腕を叔父さんの背中にまわした。その胸に顔をうずめ、低いつぶやきをもらす。
「あたし……あたしね。億叔父さんが、好き」
 口をついて出てしまった言葉に、自分でも驚いていると、突然叔父さんの腕が藤子を強く抱きしめた。とまどう藤子に、叔父さんがささやきかけてくる。
「知っていたよ。藤子は昔からずっと僕を好きだった」
 叔父さんは藤子の顔をじっとみつめた。
「ちゃんと言えたごほうびに、ずっと僕のそばにいさせてあげる」
 叔父さんは笑っていた。本当に楽しそうに笑っていた。怖くなって後ずさりしようとしたが、叔父さんの力は強くて、藤子はその腕をふりほどけない。
 叔父さんの瞳をみつめているうちに、ふいに猛烈な眠気が藤子をおそった。とてもあらがうことのできない大きな力が、藤子を眠りの世界へと追いやっていく。
 藤子はうだるような暑さの下、叔父さんの腕の中で、いつしか眠りにおちていた。ただ、眠りにつく寸前にかいだ、どぎつい真っ赤な花のむせるような香りだけは覚えている。
 
 気づくと、夢の中だった。夢の中で、藤子は花に埋もれていた。さっきの花壇に咲いていたのと同じ、毒々しいまでに真っ赤な花の群れ。その色は、藤子になにかを連想させる。
 すぐそばに叔父さんがいて、その隣には万里叔母さんが眠っている。まるでさっきまでの続きのように。違うのは、ここが一面の花畑だということだけ。
「……ここは?」
 叔父さんに藤子はたずねた。その問いには答えずに、叔父さんは笑った。
「ここでね、あそぶんだよ。二人で」
 藤子はあたりを見回した。でも、ただただどこまでも赤い花が続いているだけだ。
「ここで遊ぶって、いったい……?」
 藤子のとまどいをまったく無視して叔父さんは続ける。
「ここに万里が眠っているね」
「え……うん」
 確かにその通り。テーブルの上に顔を伏せて、万里叔母さんは眠り続けている。静かな寝息をたてて、なにも気づかずに。
「憎いとは思わないかい?」
「えっ?」
 意味がよくわからなかった。億叔父さん、いったいなにを言ってるの?
「僕が好きなんだろ、藤子。万里さえいなければ、君は僕とずっと一緒にいられるんだよ。邪魔だろう? 殺したいと思うだろ?」
 そりゃ、たしかに万里叔母さんは邪魔だと思う。この人さえいなければ、とも思う。でも……殺す? 万里叔母さんを? そんな……。
「大丈夫だよ、藤子。ここは夢の中なんだから。誰にもわかりっこない。さあ」
 どこからか叔父さんがナイフを取り出し、藤子に渡す。ナイフの刃が夏の陽射しをあびて、ぎらぎらと輝いている。
 ……そうか。そうよね。ここは夢の中なんだものね。本当に殺すわけじゃないもの。ただの……ただのお遊び。これは、ゲームなの。
 藤子はナイフをぎゅっと握りしめた。力をこめて、万里叔母さんの背中に突き立てる。ずぶっと肉に刃がめりこむ感触が気持ち悪くて、藤子はあわててナイフを引き抜いた。その拍子に血があたりに飛び散る。花にかかった血は、同じ色の花びらをまるでぬれたように光らせる。
「だめだよ、藤子。もっとちゃんとやらなくちゃ」
 億叔父さんが藤子の手からナイフを乱暴にもぎ取った。少年のような瞳が残忍な光を帯びている。
「藤子、見てろよ。こうするんだ」
 億叔父さんは万里叔母さんの頭をつかむと、首のあたりにナイフを走らせた。次に胸を刺し、腹を刺し……。たくさんの血が出た。そのほとんどを、赤い花が吸った。万里叔母さんの血を吸った花は、ますます赤みを増し、妖しく光っていた。赤い花の群れがまるで血の海のようだ。
 血の海でおぼれているかのような万里叔母さんと、それを平然と見下ろす億叔父さんを見るうち、藤子は気が遠くなった。いくら夢の中の出来事とはいえ、恐ろしくてたまらなかった。遠くなっていく意識の中で、血の匂いだけがいつまでも藤子から離れなかった。
 
「藤子、藤子。おきなさい」
 億叔父さんに揺りおこされて目が覚めた。頭がぼーっとして、なかなか思考が定まらない。
「……悪夢を見たわ」
 やっとの事で、それだけを言った。重い頭をふって、次の瞬間はっとする。あたし……座ってる!? 眠る前、確かあたしは叔父さんと抱きあって立っていたはずなのに。今藤子の座っている場所は、さっき万里叔母さんがいた場所……
 ぼんやりと前方に目をやってみて、藤子はぎょっとした。なぜなら、そこに藤子が眠っていたからだ。ちょうど、先程までの万里叔母さんのように。
 そんな、まさか。でも、たしかにこれはあたしだわ。でも、今目の前にいるのがあたしなら、それを見ているこのあたしは、一体誰なの?
「これ……誰? あたし?」
 ふるえる指で目の前の自分を指さす。
「うん。藤子だね」
 笑いながら、億叔父さんが答える。
「じゃ……あたしは?」
 次に自分を指さす。
「それも、藤子だね」
 そんなばかな。あたしが二人いるなんて。そんなこと、あっていいはずがない。
 そこで、藤子は自分の着ている服が、ついさっきまで万里叔母さんが着ていた服だということに気がついた。自分は万里叔母さんの服を着て、万里叔母さんのいた場所にいる……。
「……叔父さん、万里叔母さんは!?」
 億叔父さんが苦笑する。仕方ないな、といった表情。
「藤子、万里はさっき殺したじゃないか。僕達が二人で。だから、万里はもうどこにもいないんだよ」
 叔父さん……だって、あれは夢だったんじゃ……。あまりの言葉に、藤子は呆然とする。
「ついでに言うと、君が今いるのは、万里の中だよ。万里は体だけは残していったからね」
 な……そんなばかな。そんなことって。信じたくなかった。とても信じられなかった。でも。すべての状況が、叔父さんの言うとおりなのだと教えていた。
「だって君は僕のそばにいたいんだろう? これで君は僕の妻として、万里として、ずっと僕のそばにいられるよ。良かったじゃないか、願いが叶って」
「違う、違うわ! こんなことを望んだんじゃない。たしかにあたしは叔父さんのそばにいたいと願ったけど、それはこんな形でじゃないわ。こんなのはいやよ!」
 叔父さんは微笑みをくずさず言った。
「ききわけのないことを言うんじゃないよ。ほら、もうすぐ法要が始まる。そしたら君は僕の奥さんとしてふるまわなくちゃならないんだからね」
 藤子はぞっとした。これからずっと、あたしは万里叔母さんとして過ごさなくちゃならないの? 自分がこの手で殺したあの人としてふるまうの? いつばれるか恐れながら、びくびくとして……ちょっと待って、びくびくと? それって、万里叔母さんそのものじゃないの! ……まさか!
「叔父さん! こんなこと、前にもあったのね? そうなのね?」
 それをきき、叔父さんはなにかを思いだしたようだ。少し懐かしそうに目を細めている。
「あいつがどうしても僕の奥さんになりたいって言うからね、望みどおりにしてあげたんだよ。でも、今日からは、君が僕の奥さんの万里だ。わかったね、万里
 藤子は愕然とした。だからなのだ。だから、万里叔母さんは自分を避けていたのだ。以前自分がしたのと同じことを藤子がするのではないかと思ったからこそ、自分を嫌っていたのだ。そして、その危惧は、現実のものとなって――。
 じゃあ、今度はこの目の前にいる見知らぬ藤子(あたし)が、万里(あたし)を殺すの? そういうことなの?
「ほら、万里。藤子が、新しい藤子が目を覚ますよ。君達は何度も何度も同じことを繰り返すんだ。おもしろいね」
 目の前の藤子が、小さく身動きした。もうじき億叔父さんの言葉どおり、彼女は目を覚ますだろう。そして、万里を憎むのだ。かつての藤子がそうであったように。そして、万里を殺すだろう。かつての藤子がそうしたように。
 かつての藤子――万里は、あまりの恐怖に目をみひらいた。……いやだ、怖い。怖い。でも、もうどこにも逃げ場はないんだわ。以前の万里叔母さんがそうだったのと同じように。
 どうしよう。どうすればいいの? 誰か助けて。誰か! ――声にならない悲鳴を万里はあげた。
 ――そして今、赤い花の香りの中で、藤子が目を覚ます。


の迷宮 ―終―

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