緒だよ



   春。四月の風に吹かれて、桜の花びらがちらちらと舞っている。桜は霞のように広がって、桜並木の中を通ると、世界が一面桜色にぬりかえられたかのような錯覚におちいってしまうくらい。空気はあたたかで、幾重にもかさなる桜色の向こうの空色も、すきとおるようにやさしい色あいをみせている。
 ほのかに香る、春の風のにおい。芽吹き始めた木々の萌黄色。どこからか、かすかにきこえてくる小川のせせらぎ。
 桂木茗(めい)は、そっと目をとじて、そんな季節の中をたゆたうひとときが好きだった。肌を通して体の中に入りこんでくる、やわらかな春の空気が好きだった。
 桂木茗。隣町の高校に通う彼女は、三年生になりたてのほやほやだ。三つのときからこのまちで育った。桜の多いこのまちが、茗はすごく気にいっている。
 中でもお気にいりなのは、さくら公園とよばれている、大きな公園だ。遊具はあまりなく、その代わりに、腰を下ろして休むためのベンチがたくさんある。そして、このまちの桜の名所でもあるのだ。満開のころになると、まちの人たちは、ここへお花見にやってくる。それが、ほとんどまち全体の行事となっているくらい。
 茗はいつも学校の帰り道にここへくる。家に帰るには少し遠まわりになるけれど、そんなのかまわない。いそいで家に帰ってテレビをみたりするよりも、ここで時がすぎていくのをながめているほうがずっといい。
 そんな茗は、他の人からみると、もしかすると、かわった女の子なのかもしれない。事実、学校の友人たちは、ボーイフレンドのことや、大学受験のことばかり考えていて、茗みたいに自然にたいして興味をもつ人はいない。そして、茗のことを変人あつかいするのだ。でも、茗はそうは思わない。ひとは、だれも自然なしでは生きていけないのに、どうしてもっとまわりのものに目をむけようとしないの? いつだって自然はあたしたちを優しく包んでくれているのに。あたしたちをとりかこむすべてのものを好きでいることが、どうして変なの?
 茗はいつもさくら公園にきては、そんなことを考えるのだった。
 ──今日も、茗はさくら公園にやってきて、入り口から三番目の、大きな古い桜の木の根元にすわりこんだ。その桜の木は、茗の一番のお気にいりで、『さくらぎさん』と名前をつけている。さくらぎさんは、茗にはすでに一人もいないおじいちゃんって感じがして、大好きなのだ。
 茗は、さくらぎさんにそっともたれかかった。ここはとてもいごこちがいい。ここにいると、自分自身まわりの風景にとけこんでしまえるようで。
 しばらくそうしてくつろいでいた茗だが、ひとつ大きくためいきをつくと、さくらぎさんに話をきいてもらう決心をした。その話というのは、学校でのことだ。
 今日、担任の先生と進路について話しあった。他のクラスメイトたちはもうすでに卒業後のこと、たとえば大学に進むとか、就職をするとか、決めてしまっているらしいのだ。茗は、自慢じゃないが、そんなことはあまり考えていない。ただ、漠然といつまでもこのまちで小川や公園やいろんな木々草花にとりかこまれていたいと思うだけだ。時の流れの中で、いろんなものをみつめていたいと思うだけだ。
 そんな茗に、先生はこう言った。
「桂木さん、あなたは高校三年生にもなって落ちつきがなさすぎます。自分の進路のことも考えないで、桜の花がどうとか、空の色がどうとか、そんなことばかり言って……。そんなことじゃ、ちゃんと進学できませんよ」
 茗は納得できなかった。
 大学に進むこと自体には、疑問はない。茗だって、大学に行って、植物とか環境とかについての研究をやりたいと思う。茗が疑問に思うのは、花や木に関心をもつことより、進学のほうがはるかに大事だっていうみんなの考え方なのだ。茗にとっては、自然のほうが進学のこと以上に身近で、大切なことなのに。身近なことに興味をもつことが、どうして落ちつきがないってことになるの?
 茗にはそれがあまりにも理不尽なことのように思われて、そんなふうに言われるのなら、いっそのこと大学にいくのもやめてやろうかとも思う。
「ねえ、さくらぎさん」
 茗はさくらぎさんに問いかける。
「いろんなことを知りたいと思うのは、そんなにおかしなことなのかな。あたしには、大学へいくことなんかよりも、空の色や、風のにおいや、春の息吹や、生き物のいのちや……そういったもののほうが大切なの。そういうのって、へんなのかな」
 さくらぎさんは、こたえない。ただ、だまって茗をつつんでくれているだけ。でも、それはとてもやさしい沈黙で、決して返事を拒否してるとか意地悪な気持ちでそうしてるとかいうわけではないことは、茗にもすごくよくわかる。
 さくらぎさんも、きっと茗とおなじ考えなのだ。茗はちっともへんじゃないよ、そう思ってくれているのだ。でも……さくらぎさんがそう言ったからって、なんの解決にもならないことを、さくらぎさんは知っているのだ。さくらぎさんが答えることは、たんなるなぐさめにしかならない。茗が、納得のいく答えを自力でみつけなくてはならない。
 さくらぎさんは、やさしいけれど、けっして茗をあまやかさない。そして、それが自分のためになるのだと、茗もよくわかっている。
 だから、茗は自分で考えておいた答えを口にした。
「ごめんね。もういいの、きいてもらえただけで。あたし、みんなみたいに、進学が一番大事なんだって思うことにする。だから、今の話は、他の人には内緒だよ」
 あまりにも唐突な茗の決心に、さくらぎさんは驚いたように枝をゆらした。その反応は、茗ももとより覚悟のうえだ。自分自身、納得いってはいないのだもの。さくらぎさんが驚くのも当然だ。
「……本当は、そんなふうに思いたくなんかない。でも、こわいの。自分をおし流そうとする大きな力に逆らうことは、恐ろしいことのような気がするの。自分だけ「違う」ということが、すごくこわいの。だから……みんなの考えにしたがおうかと思うの」
 そう言いながら、茗はとても悲しい気持ちになった。自分の考えを押し通すことのできない自分の弱さがなさけなかった。あまりになさけなくって、茗はさくらぎさんのそばを離れようとした。これ以上さくらぎさんのそばにいたら、泣きだしてしまいそうだったから。
 と、ふいに、周囲のすべての動きがとまった。むこうのベンチで世間話をしていたおばさんたちも、鬼ごっこをして遊んでいた子供達も、その動作の途中で凍りついたように静止したままだ。動いているのは、茗だけ。
 いや、そうではなかった。さくらぎさんが動いている。ゆるやかにそのすべての枝をふるわせ、花びらを散らす。止まった時の中で、二人の間にだけ風が吹き、さくらぎさんの散らした花びらが、その風に舞い……。
 ……きれい。桜吹雪だ。今、あたしは桜吹雪の中にいるんだ。こんなの、はじめて。
 茗は、息をのみながら、目の前の不思議な光景をみつめていた。桜色の、花の舞い。舞い散る花びらと、まったく動かない背景が、妙にコントラストがとれていて、不思議に美しい。
 花びらを舞わせる大きな風が体に吹きつける。でも、それはなんてここちよいのだろう。風にさからうのでなく、でも、流されずにその中に立っているのはとても簡単なことで、そしてとても気持ちがいいんだ……。
 茗は、はっとした。さくらぎさんは、茗にそのことを教えるために、今の光景を見せてくれたのだ。茗が間違った道をいくことがないように、正しい道を選ぶためのヒントを与えてくれたのだ。
 気づくと、いつのまにか風はやんでいて、なにごともなかったように、すべては動きはじめていた。まちのざわめきがきこえてくる。ベンチのおばさんたちはふたたび世間話をはじめ、子供達の鬼ごっこの声がかすかに耳にとどく。
 さくらぎさんは、いつもとおなじような姿で、茗の前に立っている。さきほどみせた不思議な光景とは、まったくかかわりがないようなふりをして、さわさわとそよかぜに吹かれている。
 茗は、そんなさくらぎさんをみて、そっとほほえみ、こう言った。
「……さくらぎさん、ありがとう。あたし、わかったよ。あたしはあたしなりに、自分の思うとおりにやってみる。他の人がどうだろうと、関係ないよ。あたしはあたしなんだもの。……ほんとうは、ずっとそうしたかったの。でも、その勇気がなかった……。ありがと、勇気をくれて。さくらぎさん、大好きだよ」
「いいんだよ」とでも言うように、ざわっとさくらぎさんの枝が音をたて、数枚の花びらが、ゆっくりと茗の頭のうえに落ちてきた。それは、茗には「でも、今のことは他のみんなには内緒だよ。二人だけの、秘密だからね」とさくらぎさんが頭をなでてくれているように感じられたのだ。
 だから、茗は、こくりとうなずいた。さくらぎさんをみあげ、とびっきりの笑顔で返事をする。
「……うんっ、内緒だよ!」
 ──さくらぎさんがほほえみかえしてくれたような気がして、茗のこころの中はほんのりあたたかくなった。


緒だよ ─終─

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