by.保篠



 ……誰かが泣いている。声を押し殺して泣いているのが聞こえる。
 あたりは真っ暗で、姿はまったく見えないけれど、たしかに誰かが泣いている。
 その声の聞こえる方へ、そっと近づいてみる。足音をたてないように、一歩ずつ、ゆっくりと。
 と、遠くに微かな光を感じた。ちょうど、泣き声の聞こえてくるあたり。
 そちらに近づくにつれて、声と光はだんだんとはっきりしたものになってゆく。やがて、光の中に、泣いている少女の姿を見つけた、その時。
「どうして!?」
 少女が悲しげな声をあげた。その瞬間、彼女が誰なのか、そして、なぜ泣いているのかを私は知った。
「どうして、こんなことに……」
 嘆き悲しむ彼女を慰めようと、私は手をのばしかけた。でも、その手は途中で止まる。
 今更彼女になにが言えるだろう。なにを言えば、彼女の涙を止めることができる?
 ……できない。私には、彼女を慰めることはできない。なぜなら……彼女は、私のせいで泣いているのだから。
 私の言動が、いや、私の存在そのものが、彼女を苦しめ、悲しませる。私がなにをしようと、彼女の苦しみを癒すことは絶対にできない。私が、ここにいる限り。
 彼女のふるえる背中を見つめたまま、私はそっとつぶやいた。
「ごめんね」
 彼女がはっとして顔を上げる。でも、こちらをふりかえりはしない。私を拒絶するかのように背中を向けたままだ。
 その背中に向かって、私は言葉を投げかける。私に言える、精一杯の思いを込めた言葉を。
「泣かないで。もうこれ以上あなたを苦しめたりしないから。もう……私は消えるから」
 いつの間にか、私も泣いていた。涙で彼女の姿がぼやけてにじんでいた。
 彼女の後ろ姿が光の中にゆっくりと溶けてゆく。だんだん見えなくなる。
 それでも、私は懸命に言葉を続ける。
「私はここからいなくなるから。あなたの前から消えるから。だから……もう泣かないで。お願い。もう、泣かないで……」
 
 
 いつの間に眠っていたのか。気づくと、すっかり日が暮れていた。
 夕闇が迫り始めた公園。さっきまでは楽しそうに走り回って遊んでいた子供たちも、みんな家に帰っていったのだろう。公園内に人の姿はまったくない。
 人気のない公園のベンチに、わたしは一人座っていた。眠っていたせいか、なんだか頭がぼーっとしている。頭の中に霧がかかったような感じ。
 ふと腕時計に目をやると、針は7時を指していた。
「わたしも帰らなきゃ」
 ふらふらと立ち上がり、歩き出そうとしてはっとした。帰るって……一体どこへ?
 急に寒気を覚え、わたしは両手で自分の肩をぎゅっと抱きしめた。頭がくらくらする。立っていられないくらいに。
 わたしはふるえながらベンチにもう一度腰を下ろした。だんだんと鼓動が激しくなる。
 ……思い出せない。自分が誰なのか。なぜここにいるのか。
 信じられなかった。何かの間違いだと思った。
 でも、どんなに考えても、いくら思い出そうとしても、なにひとつ思い出せない。
 いったいなにがどうなっているの。わたしの身になにが起こったの。
 ……わからない。わからないわ。ああ。
 わたしは両手で顔を覆った。肩で大きく息をする。
 しばらくそうしているうちに、少しは気持ちが落ち着いてきた。パニックを起こしている場合じゃない。冷静にならなくちゃ。そう自分に言い聞かせる。
 そこで、わたしは自分が鞄を肩から下げていることに初めて気づいた。この中に、わたしの身元を知る手がかりがあるかも。
 ふるえる手で鞄を開ける。まず、財布と定期入れが目についた。定期入れには、学生証が挟んであった。「藤井雅水」……ふじいまさみ。これがわたしの名前なんだろうか。そこに貼られている写真を見ても、それが自分だという確信が持てない。
 鞄に入っていた化粧ポーチの中から手鏡を取り出す。鏡に映るわたしと学生証の写真は、たしかに同じ人物に見える。ならば、やはりわたしは「藤井雅水」なんだろうか。
 財布や定期入れの中身を調べてみたが、入っていたカードや診察券はすべて「藤井雅水」名義になっていた。
 鞄の中には、他には文庫本や筆記用具が入っていたが、そのどれを見ても、自分の持ち物だという実感はなかった。むしろ、他人の鞄を勝手に見ているような、そんな後ろめたさを感じていた。
 鞄をさらに調べると、小さな手帳が見つかった。ぱらぱらとめくってみると、几帳面な細かい字で、テストの日程やレポートの提出期限、友人との待ち合わせなど、いろんな予定が書き込まれていた。
 手帳の中身と学生証からすると、わたしはどうやら「藤井雅水」という名前の大学生のようだ。
 でも……やっぱり、なにも思い出せそうにない。と、手帳の間からなにかが滑り落ちた。拾い上げると、それはアドレス帳のようだった。中を見てみたが、覚えのある名前は一つもなかった。
 はあ。ため息をつきながら、手帳を鞄に戻そうとしたその時、まったく唐突に、一つの名前が頭に浮かんだ。
 「……真紀」
 懐かしい響きだった。それが一体誰なのか、それは思い出せないけれど、わたしにとって大切な人物なのだろう。そう思えた。
 自分の名前すら忘れてしまったわたしが、唯一覚えていた名前。真紀。アドレス帳をみても、その名前はみつからなかった。
 真紀。彼女はわたしのなんなのか。そして、わたしはいったい何者なのか。
 すべての鍵は、真紀、彼女が握っている。そんな気がした。

話 ─終─

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