by.くぢろう



「藤井、藤井だろ」
 物思いに囚われた私の無防備な背中に、不意に呼びかける声があった。
 驚いてベンチから立ち上がった膝から鞄が落ちた。ばらばらとこぼれおちる、私の知らぬ私の持ち物たち。
 振り返った私はいったいどんな顔をしていたのだろう。
 その男は当惑した表情を見せた。
 ──それはいったいどう言う意味だったのだろう。
「おい、どうした。俺だよ」
 
 少し長めの髪。割とはっきりとした目鼻立ち。多分ハンサムといっても差し支えないだろう。
 重ね着したTシャツ。首にかかった銀のチェーン。私と変わらぬ年恰好。
 優しく見つめている瞳。
 でも。
 私は、この人が嫌いだ。
 
 不思議に、その想いだけが頭の中に湧き起こった。
 それは悲しい感情だった。とても切なくて、苦しい感情だった。
 私は泣いていたのかもしれない。
 彼は、暗く、その目を伏せた。
「座れよ」
 その言葉のままに、私はもう一度ベンチに座った。一瞬の沈黙。自転車に乗った小学生の男の子が、すぐそばを通り過ぎる。奇妙な顔をして私たち二人を見ていた。きっと──奇妙な光景だったんだろう。
 彼は小さく溜息をつくと、地面に散らばった鞄の中身を拾い始めた。慌てて、私も手伝う。そもそも、これはきっと私のものなんだろうし。
 
 手帳に伸ばした指が、彼の指と触れる。
 顔を上げる。彼と目が合った。彼が微笑む。一瞬どきりとするほど、無邪気で魅力的だ。私は──この人が好きだったのだろうか。
 
 彼の手が一瞬早く手帳をつまみあげた。パラパラと中身を眺める。
「相変わらず、几帳面な字だな」
「かえして」
 自分でも意外なほど、乱暴に、私は手帳を彼の手からひったくった。
 そうだ。彼のこの無遠慮なところがいつだって嫌だった。
「かわんないな」
「…………」
 私たちは、どちらからともなくベンチに座った。
「いつこの街に帰ってきたんだ」
「私………」
「もう、藤井は帰ってこないと思ってた。あんなことがあったし」
 彼の言葉の中に、私の知らない私がいる。
 何か、事件? 事故?
 目の前に広がる公園の風景は、私が捨てたものなのだろうか。
 ──思い出せない。なにも。
 何もかも。
「忘れたいと思ったろ。俺のことも……真紀のことも」
 真紀。その名前に、ただ私は震えた。
「参ったな」
 彼の声がふとためらった。
 どうやら私はまた泣き出してしまったらしい。自覚もなく、涙が頬をぬらしている。
「俺、ハンカチなんか持ってないんだよね」
「いいの。ごめん。カズユキ」
 不意に出た名前。ああ。そうだ。彼はカズユキだ。でも………それが誰だか、わからない。私は目頭を押さえた。
「なんか飲む? 買ってくるよ」
 彼は立ち上がった。すぐそばの自販機の前でポケットを探って小銭を探す。私は鞄の中から財布を出そうとした。そのとき、先ほどの手帳をまだ握り締めていたことに気がついた。あらためて、私は手帳をめくってみた。ビニール製のカバーの返し部分に、写真の切り抜きがはさみ込まれているのに気がついた。その写真を取り出す。
 何人かで写した記念写真のようだった。三人、四人。楽しそうに華やいだ顔。みんな笑っている。右端に写っているのは、これはきっと私だ。その左隣、これは、カズユキだ。カズユキは私の肩に手を回している。私はそれを喜んでいる。
 カズユキの隣には、少しきつめの目をした女の子。
 亮子。………亮子はカズユキが好きだった。私は、それを知っていた。
 
 その写真はどこか変だった。理由はすぐにわかった。右端が切り取られていたのだ。私の右隣………そこには………そこには、真紀がいた筈だった。
 
「これ好きだったろ」
 カズユキが両手に一本ずつジュースの缶をぶら下げて戻ってきた。
「どうした」
 カズユキがのぞき込む。
「それは………」
 カズユキは黙り込んで、乱暴にベンチに腰を下ろした。
「せっかく帰ってきたと思ったら………まだそんなもの」
 カズユキは私との間にジュースを一本置いて、自分はもう一本のタブを引き上げた。炭酸のはじける音がする。そして、そのままグイとあおる。
 なんだか、たった一本置かれたジュースの缶が、ひどく彼と私の間を分け隔ててしまった気がする。気まずい沈黙が続く。
 彼に聞きたいことが山ほどある。でも言い出せない。
 沈黙を破ったのは彼のほうだった。
「藤井、いいかげん真紀のこと、忘れろよ」
 それは残酷な言葉だと思った。真紀。真紀。あなたはあんなに苦しんだのに。あんなに泣いていたのに。私は何もしてあげられなかった。
 せめて。それならば。
 それならば。
 
「カズユキ!」
 遠くからの声。公園の入り口から、小走りにこちらに駆けてくる姿があった。その人影が、カズユキの隣にいる私の姿を認めて、歩みを止めた。逡巡しながらも、ゆっくりと近づいてくる。
 亮子。
 染めた赤い髪。細い腕をあらわにしたキャミソール。敵意に満ちたまなざし。
 
「雅水………どういうこと」
「偶然だよ、偶然」
 カズユキは吐き捨てるように言う。その声音が非常に言い訳がましく響くことを彼は気づいていないのに違いない。
 私は、それが嫌いだったのに。彼はまだ気づいていないのだろう。
「偶然ね」
 亮子は攻撃的だ。私はいたたまれず立ち上がった。彼女を見たくない。
 胸が痛んだ。これは私の記憶の中から呼び覚まされた痛みだろうか。
「どうして」
 亮子の声が追いかける。私は逃げようと足を早める。
「どうして今更顔出すのよ。せっかくみんな、忘れようとしていたのに」
「やめろ、亮子」
「カズユキだって、あんたのこと、忘れていたのに」
「やめろってば」
 カズユキが亮子の肩をつかんで、なだめようとしている。その光景に、私の胸はますます痛んだ。失ったもの。それは私の失ったものだ。
 まじまじと二人を見ていた私に、亮子は最後の一言を投げつけた。
「ヒトゴロシ──」
 私は走り出した。視界の端に亮子の身体を抱きすくめたカズユキの姿が見えた。
 
 真紀。真紀。真紀──私を助けて。
 私をゆるして。
 私を、ゆるして。

話 ─終─

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