by.保篠



 走って走って……亮子の声から逃れるように、二人の姿が見えなくなるまで走って、わたしはやっと足を止めた。目の前のガードレールに手をつき、呼吸を整える。
 亮子の最後の言葉が、まだわたしの耳元でこだましている。
 ヒトゴロシ……ひとごろし……人殺し──
「やめて!」
 その声を振り切るように、きつく目を閉じ、首を振る。
「やめて……お願いだから」
 懇願の甲斐なく、亮子の容赦ない声はさらにわたしを責め苛む。
 ひ・と・ご・ろ・し。
 やめて。やめてよ。わたしは誰も殺してなんか……。
 そう言いかけて、はっとする。
 ちがう。人殺しっていうのは、なにもそういう意味ばかりじゃない。
 たとえば、誰かを死に追いやった。たとえば、誰かを見殺しにした。法律上は罪に問われないとしても、それは十分に人殺しと言えるだろう。
 背筋がぞくりとした。失った記憶の中で、わたしは誰かを死なせてしまったのだろうか。そんな過去から逃げるため、わたしはこの街を去ったのか。
 わたしは、なにか恐ろしい罪を、背負っているのだろうか。
 
 ……真紀。まさか、わたしが真紀を……?
 いいえ、そんなはずはない。そんなことは絶対にありえない。
 だって、わたしは、真紀を──。
 
 突然、クラクションが鳴り響き、わたしの思考はそこで途切れた。我に返ったわたしの目の前を一台の車が通りすぎてゆく。
 どうやら、気づかぬうちに車道に大きく身を乗り出していたようだ。
 あわてて体を起こし、ほっと息をつく。今の騒ぎで、さっきつかみかけた記憶の断片は、再び霧の中に紛れてしまった。
 わたしは真紀を──。そのあと、わたしはどんな言葉を続けようとしていたのか。
 ……わからない。思い出せない。なにか大切なことを思いだしかけていた気がするのに。とても大切なことだったような、そんな気がするのに。
 
 なんのあてもないまま、わたしは歩き始めた。緩やかなカーブを描くなだらかな坂道を、ゆっくりと下りてゆく。
 道の向こうには、団地だろうか、そっくり同じ形をした建物が幾棟も並んでいるのが見える。わたしが歩いている側の歩道に沿って並ぶ建物は、どうやら学校のようだ。
 そんなごく当たり前の風景に、わたしは懐かしさを感じていた。
 そして、その感じは、進むにつれてどんどん強くなっていった。
 ……この道には、見覚えがある。以前、何度もこの道を通った。そんな気がする。
 わたしの記憶が正しければ、このカーブの先には、きっと──。
 わたしは少し足を早めた。一刻も早く、確かめたかった。この道の先にあるはずの景色を、早くこの目で見てみたい。
 はやる気持ちを抑えながら、長いカーブを曲がりきったその時。わたしの目の前に見えたのは──。
 
「……海」
 そう。わたしの視界一杯に、海が広がっていた。
 夜を迎える一歩手前の薄闇の中、街の灯を映して輝く海。はるか遠くに見える水平線。暗い波間に浮かぶ島影。そして、かすかに漂う懐かしい潮の香り。
 ああ、そうだ。わたしはこの場所を知っている。この景色を、この潮風を、確かに憶えている。潮の香りに包まれた、海の見えるこの街で、わたしは育ったのだ。
「──」
 なにか言いたいのだけれど、懐かしさに胸が詰まって言葉にならない。熱い涙があとからあとからあふれ出てきて止まらない。
 ……なんだか今日は泣いてばかりいる。わたしはこんなに泣き虫だっただろうか?
「雅水ちゃんは、本当に泣き虫ね」
 不意に、声が聞こえた。穏やかでやわらかな、優しい声。これは──そう、真紀の声だ。
「泣かないで。大丈夫だから。私がそばにいるから。だから……もう泣かないで。お願い。もう、泣かないで……」
 そうだった。わたしが泣くと、真紀はいつもこう言ってなぐさめてくれた。
 でも……わたしは気づいていた。なぐさめているはずの真紀の声が、途中からいつも涙声になっているのを。泣き虫なのは、真紀も同じだった。
「真紀?」
 そっと振り返る。けれど、そこには誰の姿もない。
 今のはただの空耳? それとも……。
 
 遠くで汽笛の音がする。沖をゆく船の灯りが、海を一瞬赤く照らし出す。
 その時、突然の潮風が、私の前髪をふわりと吹き上げた。
「特等席ね」
 海から吹く風に乗って、また声が届いた。
 それと同時に、ある一つの情景が私の脳裏にはっきりと浮かび上がる。
 海面をあかあかと輝かせながら、水平線にゆっくりと沈んでゆく太陽。それを見ているわたしたち──わたしと、真紀。校庭のはずれの、二人の「特等席」。懸垂シーソー。
 
 わたしたちの通っていた学校は丘の上に建っていた。ここに来る途中に見た、あの学校がそうだ。懸垂シーソーは、その校庭の端にあった。
 他の場所で懸垂シーソーを見たことはないので、もしかしたらこの地域特有の遊具なのかもしれない。それとも、古い学校だったから、昔の遊具が残っていたのだろうか。
 懸垂シーソーというのは、その名の通り、懸垂式のシーソーだ。鉄棒の両端に人がぶら下がり、はずみをつけて交互に上下させる。下になった方は膝を曲げてしゃがみこみ思い切り鉄棒を引き寄せる。すると、反対側の人間はかなりの高さまで引き上げられ、まるで空に吸い込まれるような不思議な感覚が味わえる。
 でも、それだけではない。校舎に背を向けてぶら下がると、体が宙に浮いて視線がフェンスの高さを越えた瞬間、眼下に広がる海を一望することができるのだ。天気の良い日には、内海の向こうの島までも見渡せた。
 なにもさえぎるもののないその景色を眺めていると、広い海を独り占めしているような、贅沢な気持ちになる。あの感動は、とても言葉では言い尽くせない。
 私たちが特に気に入っていたのが、夕焼けの海だった。毎日のように、その「特等席」から海に沈む夕日を二人で眺めていた。
 ──そう。わたしたちは、いつも一緒だった。隣に真紀がいるのが当たり前のように思っていた。そして、これから先もずっと、手を取り合って一緒に歩いていける、そう信じていた。
 でも。しっかりとつないだその手を先に離したのは、わたしの方だった──。
 
 ……真紀。真紀を探さなくちゃ。
 真紀は、きっとこの街のどこかにいる。どこかで今もわたしのことを待っている。そんな気がしてならなかった。
 気づくと、わたしは駆けだしていた。街灯のともり始めた夜道を引き返す。時の流れを遡るように、坂道を上る。
 真紀とわたしの間に一体なにがあったのか。わたしたちはなぜ離れてしまったのか。それはわからない。もしかしたら、記憶を封印せずにはいられないほど、辛い出来事があったのかもしれない。
 けれど……これだけははっきりと言える。このまま、真紀のことを忘れたまま、生きていくことなんてできない。どんなにつらくても、わたしは思い出さなくてはならない。
 忘れることは、失うことだから。永遠に失ってしまうということだから。
 真紀……真紀。わたしはあなたを失いたくない。
 
 このときのわたしは、真紀のことで頭が一杯で、周囲のことに注意を払う余裕がなかった。だから、坂の途中ですれ違った一人の男性が、わたしを見て驚愕の表情を浮かべたことにまったく気づかなかった。そして、その男性がわたしの後ろ姿をいつまでもみつめ続けていたことにも、もちろん気づいていなかった──。
 
 わたしは、暗い道をただひたすらに走り続けた。真紀との想い出の場所を目指して。わたしたちの「特等席」、あそこに行けば、きっとなにかが見つかるはず。そう強く感じていた。
 ……真紀。会いたい。
 あなたに、あいたい。

話 ─終─

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