by.くぢろう



 夜の学校は不気味なものだ。
 ましてや初夏のこの季節に怪談なんて、お誂え向き過ぎる。
 
 当然のごとく、その小学校の門は固く閉ざされていた。わたしは、一瞬ためらったが、勝手に足が動いていた。坂道に面した正門を行き過ぎて更に戻ると、小さな路地がある。小学校の敷地と、隣接された中学校の敷地とを隔てる狭い路地だった。
 小学校は海側がグラウンドとなっていて、そちらを囲うのはフェンスなのだが、この路地に面した部分は、味気のないコンクリートの壁に覆われている。対する中学校のほうも、路地側には校舎が迫っていて、やはり冷たい感じのするブロック塀だ。
 
 わたし「たち」は、小学校を卒業してもよく、この路地を通りぬけて、「特等席」まで走っていった。
 夕暮れ。海は穏やかに凪いで、茜色に染まった空を細波の鏡に映して、きらきらと輝いている。大きな雲が、心細い旅人のように、青から紫、そして真っ赤へと変化していく水平線の彼方に吸い込まれていく。
 
 真紀、わたしたちは……。
 
 中学校側のブロック塀に、コンクリートで四角く固められた古い用水桶がくっつけられている場所があった。
 ちょうど、その塀の裏側には、手頃な大きさの楠が植えられてあって、たとえスカートをはいていても、容易に上ることが出来た。そして、塀を乗り越えれば、用水桶の上に足がつく。学校からの脱出成功だ。
 
 まるで、田舎の子丸出しだよね。
 
 そう言ったのは誰だったろう。紺色のセーラー服。三つ編み。ポニーテイル。可愛らしくて、安っぽいアクセサリ。他愛もなく漏れる、笑い声。
 
 私の頭の中で、ぐるぐると映像が回る。グレイがかった映像だった。
 不思議なコラージュ。記憶。でも映像ばかりで──聞こえてくるのは、風の音、波の音、教室の喧騒……言葉にならないさざめきばかりだった。
 
 それでも、わたしは、不意に脳裏を掠める記憶を頼りに、その場所についた。
 用水桶はそのままにあった。
 それじゃ──振り返って、小学校側の壁を見る。
 ああ、そのままだ。
 ぽっかりとあいた穴。小柄な女の子だったら、くぐれてしまう。
 
 わたしと、真紀。
 真紀は、いつまでたっても、儚げな少女だったから。
 
 私は、中学を卒業する前に、その穴をくぐらなくなった。
 もうスカートを汚さないでは、その穴をくぐることは出来なかったし、いつまでも泥だらけのスカートを着て平気ではいられなくなっていた。
 
 それでも、真紀は、真紀だけは、ふわりと風のように通りぬけていって、海の見える「特等席」へ走っていったのだ。
 
 自分の姿を、もう一度確かめる。
 薄手のニット。黒いGパン。靴はほんの少しヒール。
 まず鞄を、壁の上に放り投げる。うまい具合に向こう側に落ちる音がした。
 次に、身をかがめて穴に頭を突っ込む。両手と両膝をついて四つん這いの格好で。記憶を失う前の私が、Gパンを選んだことに少し感謝した。
 壁自体は、そんな厚いものではない。ただ、壁のすぐ向こうはツツジの茂みがあって、視界と身体の通行を邪魔していた。
 ほんの少し、ツツジの細かい枝が肌を引っかいた。
 真紀だったら……。
 
 穴を抜け、ツツジの植え込みを掻き分けたら、なだらかな斜面が校舎に向かって下っている。鞄を拾い上げて、私は歩き始めた。校舎をぐるっと回って、グラウンドを横切り、あの「特等席」へ。
 
 暗いガラス窓が、校舎を飾っている。
 夜の学校は静まり返って、建物が大きいだけに虚ろだ。
 
 ふと校舎を見上げた時、チラッと小さな明かりが見えた。──ような気がした。
「まさか、ね……」
 
 夜の学校は不気味なものだ。
 ましてや初夏のこの季節に怪談なんて、お誂え向き過ぎる。
 
 第一……こんな中途半端なまま記憶を失った私の存在自体が、既に怪談じみてはいないだろうか。「ヒトゴロシ」の私自体が。
 
 もうすっかり日は暮れて、学校は暗かった。
 まだ夏休みに入るには少し間があるだろうに、不思議なぐらい、学校には人の気配がなかった。
 歩いていくうちに記憶が戻らないかと期待もしたが、それは残念ながら叶いそうになかった。ただ、所々──それは、校舎の角の具合だったり、花壇の縁を飾っているレンガだったりするのだが、わずかに刺激されるものがあるのか、不意に頭の中にイメージが広がることがあった。それは、とりとめのないヴィジョンで、授業風景や休み時間の、何気ない一場面がふっと浮かんで消えてしまうのだ。
 だが、そのイメージの連続だけが今は便りだった。
 藤井雅水。学生証を見る限り、今は二十一になった大学生。そしてこの町の出身であり、ここには友達と、きっと昔恋人だった人がいる。
 まるで他人のプロフィールのように現実感がないのに、幾つかの言葉には、感情過多ではないかと思えるほど、動揺する。そして、胸に溢れてくる切なさ。これは、本物の気持ちだろうか。
 こんなムラのある記憶喪失なんて存在するのだろうか。まるで。
 そう、まるで、意図的に何かの記憶を封じ込めようとしたみたいに。──しかし、その作為は綻び始めている。すべては、真紀──。
 真紀。あなたが呼び覚まそうとしてくれている。
 
 わたしは、はっとして足を止めた。
 こんなにも真紀に対して思いがこみ上げているのに、真紀の声さえ耳元でよみがえったというのに、私は──彼女の顔を思い出せない。
 ぼんやりと浮かぶイメージの中で佇む真紀の姿。その真紀には、顔がなかった。
 髪の毛。輪郭。しかし、目鼻立ちはぼやけてしまって──ただ静かに微笑む唇ばかりが、ぼやけた肉色の仮面の中に浮かんでいる。
 
 潮騒。
 かすかに、夜の潮騒が風に運ばれて聞こえてくるようだった。
 コンクリートの壁からフェンスへと変わる、グラウンドの端っこ。水飲み場が、校舎とグラウンドとの境界線になっている。フェンスの向こうは、もう海が見えるはずだった。
 私はフェンスの冷たい鋼の格子を握り締めた。暗くて、海は既に定かでない。地上の闇と海の闇は混じり合って、わずかに海上に浮かぶ船の灯りだけが、そこに水があることを教えてくれていた。
 さほど曇ってもいなかったはずなのに、星はまばらだ。月も雲に隠れている。
 懸垂シーソーは、グラウンドの反対方向にある。もう少しだ。今になって、私は緊張し始めた。
 
 ふと、煙草の匂いがした。
 懸垂シーソーのあたりに、ぽつんと赤く、小さな煙草の火が見えた。その吸い口の火の高さからして、そんなに背が高い人物ではない。
 私は足音を気にしながら、近づいていった。
 二、三歩あるいて、足元で砂利が鳴った。その人物がはっと、こちらを振り向いた。
 月が丁度、顔を出す。そして、私たちを照らした。
 
 彼は慌てて煙草を捨てると、靴先で踏み潰した。
 白いシャツ、黒いズボン。夏服の学生服だ。予想通り、背は高いほうではないが、中学生ということはないだろう。
 
「なんだよ」
 彼がこちらを睨む。
「別に……何も」
 そう応えるしかない。
「何だよ、何か用かよ。何でこんなトコにいるんだよ」
 それは、こっちが言いたい台詞だ。
「わたし、その懸垂シーソーに用があるだけだから」
「え?」
 彼の狼狽が喫煙を見咎められた故であるのは、はっきりしていた。何だか、私はおかしくなった。
 そう言えば、カズユキも慌てていたことがあった。見つけたのは──真紀。
 
 真紀。
「あの人、わたし、嫌だな」
 そう言ったのは、真紀? それともわたし?
 
「どうしたんだよ」
 彼の言葉に我に返った。
「あんた、誰」
 あんたこそ。
「先生じゃないの?」
「……まだ、学生だけど」
「教育実習の人?」
 ああ、そう言えば来年はそうなるかも。
「違うけど……」
 そうだ。金曜日に教職の科目のレポートを出したんだ。
 金曜日……今日はいったい……。
「なにしてんだよ」
「あんたこそ」
 今度は声に出してみた。
 彼は、一瞬ためらった。
「別に……卒業生だからさ」
「わたしだって……卒業生なんだから……だからって未成年が小学校で煙草吸うの、良くないんだからね」
「う……うるせえな」
 彼は背を向けた。何だか可愛い奴だ。そんなに不良ってわけでもないらしい。
「いいだろう。今日は日曜なんだし、誰もきやしないよ」
「そんな理屈……」
 そうか。日曜日なんだ。
 じゃ、土曜日は? わたしの昨日は?
 
 ギィッと音がして、懸垂シーソーの鉄棒が揺れた。彼が一方の端を握っている。
「いくつ?」
 彼が言う。初対面の女性に年を聞くか?
「二十一……たぶん」 
 彼は指を数える。
「四つ違いだ──じゃ、知ってる? 安河内先生?」
 やすこうちせんせい。
 わたしは、ふらふらと、懸垂シーソーに向かって歩いた。彼が握っている鉄棒の端を、彼の手の、その上から握り締める。
「なっ……」
 彼が、一瞬うろたえる。だけど、わたしの意識は遠くを見ていた。
「わたしと真紀……よく、ここに帰ってきていた。安河内先生は、いつも、わたしたちを歓迎してくれた。仕方のない卒業生だって……笑って……いつも」 
「安河内先生、先週ここで死んだんだ」
 わたしは彼を見た。
「どうして──」
 言い終わらぬうちに、懐中電灯の明かりがわたしたちを照らした。
 突然の光に、わたしは目がくらんだ。

話 ─終─

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