by.保篠 紗綾
「誰だ、そこにいるのは!」
誰何の声とともに、明かりがだんだん近づいてくる。
「見回りだ、逃げよう」
彼がそう言って走り出す。
わたしも逃げなくちゃ。そう思うのに、足がすくんで動けない。
……前にも、こんなことがあった。あれは……あれは……。
身体を置き去りにしたまま意識だけが時間を遡り、過去へと向かう。
目の奥に焼き付いた、光の残像。記憶のフラッシュバック。
突然の閃光。わたしと真紀を見咎める怒声。あわてて駆け出すわたしたち。離れてしまった二人の手。真紀の悲鳴。わたしの、悲痛な叫び。遠くに響く海鳴り。
何かがつぶれるいやな音。目の前が真っ赤に染まる。誰かの泣き喚く声。
「真紀……真紀!」
「雅水ちゃーーーーーん!」
「真紀──」
「なにしてんだよ」
はっと我に返る。目の前に彼の顔があった。
なかなか逃げだそうとしないわたしを気にして、引き返してきてくれたらしい。
「こっち!」
わたしの手をひいて駆け出す彼。
懐中電灯の明かりから逃れるように、校庭の隅を目指して彼は走る。足が速い。わたしは置いていかれないようについていくので精一杯だ。
しばらく走ると、小さなプレハブ小屋に着いた。これはたしか、体育倉庫のはず。
彼は躊躇することなく、倉庫の窓枠に手を掛ける。
「ここの鍵、壊れてんだ」
そう言って窓を開け、窓枠をつかむ手に力を込める。懸垂の要領で身体を浮かせ、足から先に倉庫に滑り込む。
「早く!」
彼の声にせかされ、わたしは覚悟を決めた。足音はすぐそこまで迫ってきている。ためらっている時間はない。
とはいえ、彼のように身軽にはいかない。窓をよじ登り、そのまま転げ落ちるように倉庫の中へ。
彼が窓を閉め、急いで身をかがめたその直後、窓越しに懐中電灯の明かりがこちらに向けられた。
間一髪、セーフ。
足音の人物はしばらくあたりをうろうろした後、諦めて去っていったようだ。
倉庫の中は暗かった。窓から差し込む月の光を頼りに見回すと、彼は跳び箱にもたれて床に座り込んでいた。
「どうやら、常習犯みたいね」
彼の隣に移動して、わたしもしゃがみ込む。
「なんで」
「慣れてるみたいだから」
その言葉には応えず、ふん、と鼻を鳴らす。なんとも小憎らしい態度だ。
まあいい。一応助けてくれたわけだし、大目に見てあげよう。
それより、彼には聞きたいことがある。
「……さっきの話だけど」
「なに」
面倒くさそうに顔を上げる。
「安河内先生が亡くなったって……」
「ああ……」
彼が体を起こし、心持ち居住まいを正した、ような気がした。
「いったい、どうして」
彼は少し遠い目をした。なんだか泣くのを我慢しているように見える。
「……休み時間だったんだ。先生は懸垂シーソーのそばで子供たちと一緒にドッヂボールをしてた。懸垂シーソーには子供が群がってて」
同じだ。わたしがこの学校に通っていた頃も、先生はよく子供と一緒に遊んでくれていた。先生は子供たちの人気者だった。
「一人の子が、懸垂シーソーから落ちたんだ。手を滑らせて、上から。そばにいた先生があわてて駆け寄って、子供を抱きとめた。でも、その拍子に、先生、よろけて、支柱に頭をぶつけて……」
その後救急車で運ばれた先生は、打ち所が悪かったらしく、意識を取り戻さないまま、病院で息を引き取ったそうだ。
「……先生らしいわ」
本当、先生らしい。子供をかばって亡くなってしまうだなんて。あまりにも先生らしすぎる話で、なんだか泣けてくる。
「で、なんでまた、先生が亡くなった場所で煙草なんか吸ってたわけ?」
一瞬ためらった後、ぼそりと彼が答えた。
「焼香の代わりになるかと思ってさ。それに、先生、煙草好きだったし……」
そういえばそうだった。職員室で見かける先生は、いつも煙草をくわえてた。
そう。あんたはあんたなりに先生の死を悼んでたんだ。
この瞬間から、わたしはこの少年に対して親しみのようなものを感じ始めていたのだと思う。
わたしは膝を抱えてうつむいた。
「わたし……先生のこと好きだった。教職をとったのも、安河内先生みたいな先生になりたかったから。先生は、わたしの目標だった。なのに……」
「俺……俺は」
彼は再び跳び箱に体重を預け、遠くを見つめながら、言葉を選ぶように言う。
「目標とかじゃなく、ただ好きだった。父さんみたいに……思ってた」
膝に乗せた顔をゆっくりと彼の方に向ける。
「父さんみたいにって……?」
「俺、父親いないんだ。って言っても、死んだんじゃなくて、小学生の頃に両親が離婚しただけなんだけど」
両親。彼のその言葉がちくりとわたしの胸を突き刺した。
「今でこそ平気で話せるけど、当時はやっぱショックだった。父親参観の時なんか、うちだけ母親でさ、すげーさみしかった。そしたら、先生がさ、『お前の父さんはここにいるじゃないか。先生はみんなの父さんのつもりでいるんだぞ』って。俺は『なに言ってんだよ』って答えたけど、でも……」
「でも、ちょっと嬉しかった?」
意外なほど素直にこくりと頷く。
「そっか……」
月の前を雲が横切り、光をさえぎる。潮が騒ぐ。
暗い倉庫の中で、わたしたちはただ黙って、遠い波音を聞いていた。
沈黙を破ったのは、彼の方だった。
「あの懸垂シーソーさ……」
「うん?」
「もうじき取り壊されるんだ」
わたしは驚いて彼の顔を見た。この暗さのせいで、その表情はよく見えない。
「どう……して」
「先生の事故の後、PTAで問題になったらしい。そんな危険な遊具を学校に置いておく訳にはいかないって」
わたしはなんと言えば良いのかわからなかった。
わたしと真紀の「特等席」が、大好きだった先生の命を奪い、その懸垂シーソー自身もまた、姿を消そうとしている。真紀との大切な思い出の場所がなくなってしまう──。
「仕方ない。仕方ないんだ。昔の事故のこともあるし……」
彼の口調は、まるで自分自身に言い聞かせているかのようだった。
わたしは……はっとした。昔の事故。遠い過去に懸垂シーソーで起こった事件。それは、もしかして、わたしと真紀になにか関係があるの?
「昔っていつ? 昔の事故って? あの場所で一体なにがあったの?」
矢継ぎ早に質問を投げかける。
その途端、彼の顔がこわばったのがわかった。
「……しらねえよ。昔は昔だよ。俺は……なにも知らない」
そう言ったきり、彼は不機嫌そうに黙り込んでしまった。
彼は嘘をついている。それはその態度から見ても明らかだった。
彼は知っている。あの場所で、いつ、どんなことが起こったのか、彼はよく知っているはずだ。
でも、それは……彼にとって触れられたくない心の傷なのだろう。彼もまた、わたしと同様に痛みを抱えている。
同じ小学校の卒業生であること以外に何の接点もないと思っていたわたしとこの少年は、おそらく、「昔の事故」という点で深く関わり合っているのだ。そして、二人を結ぶ線の先にいるのは──真紀?
「ねえ」
彼が仏頂面のままじろりとこっちを見た。
「一本ちょうだい」
「え?」
唐突な言葉に彼は驚いたようだ。
「煙草。まだ持ってるんでしょ?」
「あ、ああ」
胸ポケットから煙草と安物のライターを取り出し、こちらに投げてよこす。
「俺にはだめだって言ったくせに」
「わたしは未成年じゃないもの。それに、なんだか吸ってみたい気分なの」
「……吸ったことないの?」
その問いには答えずに、煙草をくわえ、火をつける。でも、この後どうしたらいいのかがよくわからない。こわごわ吸ってはみるものの、どうしても口先で吹かすばかりになってしまう。どうやら、記憶を失う前のわたしには喫煙の習慣はなかったらしい。
「……安河内先生の話、まだ続きがあるんだけど」
「なに?」
「これは噂だから本当かどうかわからないんだけど……出るらしいんだ」
で、出るってなにが。そう言おうとしたけれど、くわえた煙草のせいでもごもごとしか声が出せない。
「安河内先生の幽霊が、この学校に」
思わず息をのんで──その拍子に煙を思い切り吸い込んでむせてしまった。
激しくせき込んで苦しむわたしを、彼はあきれたような目で見ている。
「慣れないことするからだよ」
「あんたが変なこと言うからでしょ。よりによって、幽霊だなんて。冗談にしても──」
「冗談なんかじゃないよ」
彼の表情は真剣そのものだ。冗談よりもなお悪い。
「ちょっと、やめてよ」
「怖いの?」
「そりゃ──あんまり気持ちのいい話じゃないでしょ。それに、自分のよく知ってる人がそんな風に言われるなんて、なんだか不愉快だわ」
ふーん、と間の抜けた返事をする彼に、逆にこちらからも聞いてみる。
「あんたは? 怖くないの?」
「……安河内先生の幽霊なら、怖くない。幽霊でもいい、会いたいんだ。先生にもう一度会いたい。だから……」
彼のその言葉に、胸を突かれる思いがした。
幽霊でもいい、会いたい。その思いに動かされて、彼は夜の学校にやってきたのだ。
わたしと同じだ。わたしも、真紀に会いたくて、ここに来たのだから。
ふと顔を上げると、彼は窓の前に立ち、外の様子をうかがっていた。
「そろそろ出ていってもいいんじゃないか」
「そう?」
わたしも彼の後ろまで行き、その背中越しに外を見る。
「……あんまりくっついてくんなよ」
「どうして」
「……誰かに見られたら誤解されるだろ」
むすっとしてそう答える彼。その様子がおかしくて、つい笑ってしまう。
「なに笑ってんだよ」
「子供のくせに変な気を回すからおかしくて」
そう言った途端、力任せに突き飛ばされた。運良く体操用のマットの上に倒れたものの、後頭部をどこかにぶつけてしまったようで、頭ががんがんする。
「痛……」
右手でぶつけた後頭部をさすろうとして……でも、手が動かなかった。何事かと見上げると、目の前に彼の顔があった。わたしの体は、彼に押さえつけられていたのだ。
「子供扱いするな!」
彼の目はぎらぎらと怒りに満ちていた。
今のわたしの一言が彼のプライドを傷つけてしまったのだと気がついた。
とんでもない状況になってしまっているというのに、わたしは意外と冷静だった。背はわたしとそう変わらないのに、肩幅なんかは案外広いんだな、やっぱり女のわたしと違って、力が強いんだな、男なんだな、などとぼんやり考えていた。
ああ、そういえばこの子の顔を正面からちゃんと見るのは、これが初めてかもしれない。
結構きれいな顔立ちをしている。美少年という感じではないが、肌はつるつるだし、やや切れ長の目も、通った鼻筋も、バランスがとれている。まだ若干の子供っぽさは残っているが、あと何年かすれば、きっと男らしくなるだろうと感じさせる。
この顔は、誰かに似ていない? 誰だろう。わたしのよく知っている人に似ているような気が、するんだけど。
しばらく見つめているうちに、一つの名前に思い当たった。
……真紀。真紀に似ている、ような気がする。
おかしな話だと思う。真紀の顔はまったく思い出せないのに、どうして似ているなどと思うのだろう。でも、間違いない。この子は、真紀に似ているのだ。
突然、月を覆っていた雲が晴れた。月の光がわたしの顔を照らす。
その瞬間、彼が我に返ったような顔をした。それを見て、わたしも正気づく。と同時に、ぎょっとする。
わたしは、無意識のうちに、唯一自由のきく左手で、彼の頬を優しく包み込むようになでていたのだ。
あわてて彼の顔から手を離し、彼の胸を押し戻す。さっきまではびくともしなかった体は、あっけなく退いた。
急いで体を起こし、髪と服の乱れを整える。
「わ、悪かったよ。でも、あんたが俺のことを子供扱いするから」
きまりが悪そうに彼が言う。
「うん。今のは全面的にわたしが悪かったわ。……ごめん」
二人の間に気まずい空気が流れる。なにか話していないと、落ち着かない。
「あんた、わたしの知ってる人に似てるのよ。だから──」
いいわけにもなんにもなっていない。似ているから、だからどうだというのだろう。
どうかしてる。どうかしてるわ。
どうしてわたしはこんなに動揺しているんだろう。
「……それ、あんたの恋人?」
「え?」
「俺と似てるって人──」
真紀が? わたしの恋人?
まさか。笑ってそう答えようとして、でも、声にならなかった。
どうしてすぐに否定しないの? 真紀は確かに大切な人だけど、友達でしょう? わたしの恋人はカズユキだったはず。真紀じゃない。
大体、真紀とわたしは女同士なのよ。恋であるはずがない。そうでしょう? なのに、即座に否定できないのはなぜ?
返事ができずにいるわたしを、不思議そうに彼が見ている。
わたしは彼から目をそらした。
「……そんなわけ、ないじゃない。友達よ。大切な、友達──」
やっとの事でそれだけを口にする。
ふうん、と答える彼は、わたしの動揺に気づかない。気づかなくていい。
来たときと同じように、彼から先に窓から外に出た。
わたしが倉庫から出て窓を閉めてから振り返ると、彼が姿を消していた。あたりを見回したけれど、どこにも姿は見えない。
「ちょっと、ねえ、どこにいるの?」
呼びかけても返事はない。
夜の学校にわたし一人きり。そう思ったら、急に怖くなってきた。
「やだ、ひとりにしないでよ」
不覚にも、半泣きになってしまった。思わずしゃがみ込む。
どうしよう。ここに来るときは一人でも平気だったのに、今は一人でいるのが怖い。どうしよう。
と、倉庫の裏手あたりから、かさかさと草を踏みしだく音が聞こえた。彼の足音に違いない。
なるほど、わたしを驚かそうとして、隠れてたってわけね。
わたしはひそかにほほえんだ。そんなことをしてるから、子供扱いされるのよ、少年。
その辺の事情がわかった以上、怯えて縮こまっている必要はないのだけど、わたしはあえてそのままの姿勢でいた。彼には、わたしがまだ怖がっているように見えるだろう。わたしを驚かそうとしたお返しに、ちょっとからかってやろう。
こんな風に思うあたり、我ながらかなり子供っぽい。あまり人のことは言えないと思う。
「おい、泣くなよ」
わたしの前までやってきた彼は、わたしの嘘泣きを見て本当に泣いていると思ったようで、一所懸命になだめようとする。
そんな彼の様子を薄目を開けて見ているわたしは、ずいぶんと意地悪だ。
そろそろ泣きやんであげようかな。そう思い始めたとき。
「泣くなよ。大丈夫だから。俺はここにいるから。だから、もう泣くなよ。頼むよ」
彼の言葉の響きに、聞き覚えがあるような気がした。
困り切った表情でなだめ続ける彼。その姿が、真紀の姿とだぶって見えた。
そうだ。顔だけじゃない。なぐさめているうちに自分まで泣きそうになるところも、彼は真紀とそっくりだ。
わたしはゆっくり立ち上がった。泣くのをやめたわたしを見て、彼はほっとしたような顔をする。
「ねえ。名前、なんていうの」
わたしの質問に、彼の表情が曇る。
「なんだよ、やっぱりちくるつもりなのかよ」
「違う!」
思わず大声を出してしまう。
「違うの。ただ知りたいだけなの。……お願い、名前を教えて」
わたしの真剣な問いかけに気圧されたように、彼はそっと視線を逸らした。
「……智紀。二宮智紀」
にのみやともき。その名前に聞き覚えはない。でも。もしかしたら。
「……智紀。あなた、もしかして──」
「んあっ!」
わたしの言葉の途中で、智紀が奇妙な声を上げた。
「なによ、またおどかすつもり?」
「ちがう。あれ」
振り返る。智紀がわたしの肩越しに見たものが、わたしの目にもはいる。
校舎の三階あたりの教室で、なにか微かに光るもの。あれはなに?
「ここに来たときにも、あの明かりを見たような気がする。その時は気のせいだと思ったけど……」
智紀は校舎のあたりを見つめたままだ。
「あの教室……安河内先生が担任してたクラスの教室だ」
思わず、顔を見合わせてしまう。
それって、つまり……噂の、安河内先生の……。
「行こう!」
智紀がわたしの手を引いて走り出す。
いやだ、わたしをまきこまないで。そう言いたかったけれど、智紀の真剣な表情を見たらなにも言えなくなった。それに、ひとりで待っているのはもっといや。
そして、なにより……智紀の手のぬくもりは思いのほか心地よくて、わたしはその手をふりほどくことができなかったのだ。
第五話 ─終─