とらわれの



 本当に、損な性格をしている。自分でもそう思う。
 ひとことで言うなら、生真面目。バカ正直で、世渡りも下手。
 おかげで、いつも面倒な役回りを押しつけられてしまう。家でも、学校でも。
 現に、その性格が災いして、今もクラスの副委員長なんてものをやらされているわけで──

「実枝……あんたその髪型、もうちょっとなんとかならない?」
 同じクラスの友人、山崎菜月が私を見ながらおおげさにため息をついてみせた。
 五限目。英語の授業が自習になり、その課題のプリントを相手に格闘中のことだ。
「急に、何?」
「全然急じゃない。前からずっと思ってたの。今まで言わなかっただけ」
 相手にせず受け流していると、なおも菜月は言い募る。
「今時三つ編み、それも一本編みの三つ編みなんて、ありえないって!」
「そんなこと言ったって……肩より長い髪は結ぶってのは校則で決まってることだし。どうせ結ぶんなら、一本の三つ編みにするのが一番気楽なんだもの。髪がはねてても気にしなくていいし」
「そんな校則、いまだに律儀に守ってんのは、あんたぐらいだよ……」
 確かに。実際、セミロングやロングの長さでも、結んだりまとめたりしていない女生徒は、いくらでもいる。そして、彼女たちが先生方に注意されるということもない。ほとんど黙認状態で、そんな校則はもはや有名無実のものになりつつあるのだ。
 それでも。一応、規則は規則。守るに越したことはない。
 それに、下手に校則を破って目をつけられるよりは、決まりに従っている方が簡単だし、気も楽なのだ。私のように、要領の悪い人間にとっては。
「せめて、編み込みにするとかさぁ。お洒落っぽくしようとか思わないの?」
「思わない。そもそも、学校にお洒落してくるって事自体、理解できない。遊びに来てるわけじゃないんだから」
 そう答えると、プリントに意識を戻す。そんな私にあきれたように、菜月が呟いた。
「ほんっと、くそ真面目なんだから……」
 そんなこと、菜月に言われなくたって自分でもよくわかってる。そのせいで、いろいろ損をしているということも。でも、それも含めて私なんだから、しょうがないじゃない。
「そんなんじゃ、男も寄りつかないよ?」
 プリントの空欄を埋めていた手が思わず止まる。菜月のその言葉が、図星をさしていたからだ。
 確かにその通りなのだ。クラスの男子の態度が、他の女子に対するものとは微妙に違うことを、自分でも感じている。敬遠されている、というほどではないけれど、少しよそよそしいというか。
 言うなれば……男子でも女子でもない、優等生という生き物として扱われている、という感じ。
 これまでは、あまり気にしていなかった。同じクラスの男連中にどう思われようと、構わないとさえ思っていた。
 でも、このごろ少しだけ事情が変わってきた。
 というのも。
 このクラスの中に、気になる人がいるから──

「話し中悪いけど、ちょっといいかな」
 物思いにふけりかけたところに急に声をかけられて、あわてて顔を上げた。
 目の前にクラス委員長の吉住慶の姿をみとめて、少しどきりとする。この吉住くんこそ、私が好意を抱いている相手だからだ。
 すらりとした長身に、シャープな顔立ち。銀縁の眼鏡の奥の瞳は怜悧な光をたたえている。
 成績は常にトップクラスで、スポーツも一通りそつなくこなす。教師からの受けも良く、クラスメイトからの信頼も厚い──と、まさに絵にかいたような秀才なのだ。
「……伊藤さん? どうかした?」
 あまりのタイミングの良さに驚いてかたまってしまった私に、吉住くんが再び呼びかける。
「あ……あ、ごめんなさい。課題に集中していたから──
 とっさにプリントのせいにする。まさか、あなたのことを考えていてぼーっとしていました、なんて言えるわけがない。
「……伊藤さんらしいな」
 吉住くんが唇の端を片方だけあげて笑う。皮肉っぽく見えるこの表情も、私は結構気に入っている。
 ……って、そんなこと考えてる場合じゃなくて。
「ええと、なんでしょう」
「この課題なんだけどね」
 私が取り組んでいた課題のプリントを指さす。細くて長いその指。形の良い爪は、綺麗に切りそろえられていて……。
 いや、だから。吉住くんの指に見とれてる場合じゃないでしょう、私。
 私の視線には気づかず、吉住くんが続ける。
「申し訳ないんだけど、チャイムが鳴ったら集めて英語科準備室まで持って行ってもらえるかな。本当なら俺がやらないといけないんだけど、今日は日直だから」
 それを聞いてすぐに思いあたる。次の時間は地学教室でスライドを見ることになっていた。今日の日直である吉住くんは、早めに移動して準備を手伝わなくてはならない。
「わかった。こっちは私に任せて」
「ありがとう、助かるよ」
 そう答えると、吉住くんは自席に戻りかけ……ふと振り返ると、私の向かいでそしらぬ顔をしていた菜月に一瞥を与える。
「そうそう。口だけじゃなく頭と手も動かさないと、時間内に終わらないと思うよ、山崎さん」

 吉住くんの背中が遠ざかるのを確認してから、菜月が顔をしかめて見せた。
「なんなのよ、あの偉そうな態度。しかも嫌味まで並べて。ほんっとムカつく!」
 菜月は、吉住くんのことがあまり好きではないのだ。「万事適当」がモットーの彼女にしてみれば、吉住くんの自分にも他人にも厳しい態度は受け入れがたいものらしい。
「吉住くんは偉そうじゃないと思うけど」
 私が彼をかばうのが気にくわないのか、菜月はぎろりと私をにらみつけた。
「あんたに指図するののどこが偉そうじゃないっていうの! 大体、そんなの日直の仕事でしょ? 副委員長だからって吉住にこき使われて、あんたなんとも思わないの?」
「別にこき使われてないよ」
 そう。吉住くんは委員長の仕事もちゃんとこなしてる。雑用的なことはどうしたって私に回ってきてしまうけど、それだって手伝ってくれることもあるし。何もかも副委員長に押しつける委員長も多い中、吉住くんはかなり協力的な方だと思う。
 私をこき使っているのは、むしろ、担任の方。私のことを小間使いか何かと勘違いしてるんじゃないかと思うくらい。
「ああ、いいように使われていることにも気づかないなんて。かわいそうな実枝」
「……だったら、代わりにやる? 今日の女子の日直、菜月だよ」
 それを聞いた途端、菜月はころっと意見を変えた。
「いや、やっぱりそういうのも副委員長の仕事だよね。頑張れ実枝!」
 あまりの調子の良さに半ばあきれつつ見る私に、菜月は続ける。
「それにしたってさあ、吉住ってなんであんなに嫌味ったらしいんだろ。あんなんじゃ、一生彼女なんてできっこないに決まってるよ。そう思わない?」
 思わずどぎまぎする。
 ……菜月にはとても言えない。私が吉住くんを憎からず思っているってこと。
 私はあわてて話を逸らした。
「そ、それより。吉住くんの言ったとおり、本当にもう時間ないよ」
「え?」
 菜月は腕時計に目をやると、途端にぎょっとした表情を浮かべる。
「うわ、やばい。もう十分もない!」
 次の瞬間、菜月は私の手を握って泣きついてきた。
「お願い。写させて!」
「それはいいけど……時間になったら、容赦なく集めるからね?」
「ありがとう、実枝さま! 恩に着ます」
 大袈裟な物言いに、苦笑がもれる。ほんと、菜月ったら調子いいんだから。

 その日の放課後。私は出席簿を手に、二年F組の教室へ続く廊下を歩いていた。帰りのホームルームもとうに終わったこの時間、廊下には人影もほとんどない。
 この高校では、出席簿の管理も副委員長の仕事の一つになっている。登校時に職員室から教室に持っていき、下校時には職員室に戻す。教室移動の際には、出席簿も持って移動する。うっかり教室に忘れてきてしまったときには、授業開始前に教室まで取りに走ることになったりする。
 学級日誌を運ぶついでに日直がやればいいのにと思わないでもないけれど、何年も前からそういう決まりになっているのだから仕方がない。
 こんな時間に私が廊下を歩いているのも、そのせいだったりする。六限目の地学が終わって教室に戻るとき、うっかり出席簿を置いてきてしまったからだ。
 帰りのホームルームが終わってから地学教室に取りに戻ったとき、運の悪いことに、地学の先生に捕まってしまった。資料の整理をするのに人手が必要だから手伝えと言う。
 こういうときにうまく立ち回れない私は、適当に言い逃れることもできず、結局最後まで手伝う羽目になった。おかげで、このざまだ。
 こんなことなら、鞄を教室に置いていくんじゃなかった。そうすれば、そのまま職員室に寄って帰ることができたのに。どうして私はこんなに要領が悪いんだろう。
 こんな時間じゃ、教室に帰ってももう誰もいないかもしれない。そうしたら、戸締まりまでしなくちゃいけないかも。最悪の場合、私がまだ校内にいることに気づかず、鍵をかけられてしまっている可能性だってある。
 その場合、いったん職員室まで戻って教室の鍵を取ってこなくてはならない。できれば、それは避けたい。
 ……誰かいてくれるといいんだけど。望み薄、かなぁ。

 教室に戻ると、意外なことに、ドアが開いていた。
 まだ誰か残ってたんだ。良かった。
 安堵のため息をつきながら教室に入り、クラスメートの姿を探す。こんな時間まで残っているのは誰なのか、気になったからだ。
 窓際の席に腰掛けた人物を認め、私ははっとする。
 ──吉住くん。
 そういえば、吉住くんは今日の日直だったっけ。私の鞄がまだあるのに気づいて、施錠せずに待っていてくれたのかも。だとしたら、申し訳ないことをしてしまった。
「吉住くん?」
 ひとことお礼を言おうと声を掛けたけど、返事はない。不思議に思って近づくと、静かな寝息が聞こえた。
「……寝てる、の?」
 机の上には、参考書が開かれたままだから、どうやらそれを読んでいる内に睡魔に襲われてしまったと見える。窓際の彼の席の辺りには西日が射し込んでいて、ぽかぽかと暖かそうだから、傍目にもとても気持ちが良さそうだ。
 参考書を読みながら寝るなんて吉住くんらしいなと、少し可笑しくなる。
 眠る吉住くんを起こさないように、足音を忍ばせながら自席に戻った。幸い、帰り支度は済ませていたから、鞄さえ持てばすぐに帰ることができる状態だ。
 それはいいんだけど……吉住くんをこのままにしておくわけには、やっぱりいかないよね。私のせいで居残る事態に陥ったのに、目が覚めたら私はもう帰っていた、なんてことになったら、きっと気分悪いと思うし。まさかとは思うけど、夜になっても起きなくて、そのせいで風邪をひいてしまうという可能性だってなくはない。
 自分の鞄と出席簿をいったん教卓の上に置き、吉住くんに近づく。規則正しい寝息は、しばらく待っても止む様子がない。
 すぐには起こさずに、寝顔をじっくり眺めてみる。こんな時でもないと、吉住くんの顔をゆっくり見ることなんてできないから。
 いつもは冷たい印象を与えるその端整な顔立ちも、眠っている今はひどく穏やかに見える。
 無防備なその寝顔を見ているうちに、ふつふつと悪戯心がわいてきた。吉住くんの眼鏡を外してみたくなったのだ。
 眼鏡の下に隠された素顔を、一度見てみたいと前から思っていた。これって、その望みを叶える絶好のチャンスじゃない?
 普段なら考えてもみないような大胆なたくらみに、胸が躍る。高まる鼓動を抑えつつ、少しずつ手を伸ばす。伸ばした指先に、吉住くんの前髪が触れた。
 その時、細く開いた窓の隙間から風が吹き込み、開いたままの参考書のページをパラパラとめくった。同じ風が、吉住くんの前髪を揺らす。
 不意に、吉住くんが目を開けた。まずい、と思ったときには既に遅く、差し伸べていた私の手は吉住くんの右手に捕らえられていた。

──っ!」
「……伊藤さん? 何してるの?」
 寝起きのせいか、いつもより目つきが悪い。そんな目ではたと見すえられ、私は身動きさえできない。
「ご、ごめんなさい!」
「何してたのか、聞いてるんだけどな」
 この状況では、言い逃れることなどとてもできそうにない。仕方なく、口を開く。
「吉住くんの眼鏡を……取ろうとしたの」
「眼鏡を? どうしてまた……。新手の嫌がらせか何か?」
「そうじゃないの。そうじゃなくて……」
 射すくめるような吉住くんの視線に耐えきれず、そっと目をそらす。
「眼鏡を外した顔を、見てみたかったの」
 自分で言っていて恥ずかしい。顔から火が出そうだ。吉住くんも、あきれているに違いない。
「ふーん……」
 じろじろと見られている気配を感じ、いたたまれない気持ちになる。穴があったら入りたいって、きっとこういう気分のことを言うんだ。恥ずかしくて、もういっそ消えてしまいたい。
 急に、つかまれていた手が解かれた。
「別に、いいよ」
 あまりに唐突すぎて、投げかけられた言葉の意味がとっさに理解できない。
「いいって、何の話?」
「眼鏡。外してみたいんだろう? だったら、どうぞ」
 思わず吉住くんの顔をまじまじと見てしまう。そのレンズ越しの瞳は無表情で、そこから言葉の真意を読みとることはできない。
「どうぞって……」
 突拍子もない展開に、頭が混乱して何がなんだかわからない。でも、私が何か行動を起こさない限り、この状況から抜け出すことはできないのだということは、かろうじて理解できた。
 こうなったら、吉住くんの言葉におとなしく従うしかない。

 覚悟を決めて、吉住くんに向かって手を伸ばす。さっきとは違い、吉住くんに見られているせいで、非常にやりにくい。
 私がのろのろと手を動かしている間も、吉住くんは何も言わず、ただじっと私のすることを見ていた。
 吉住くんはいったいどういうつもりなんだろう。──考えても、答は出ない。
 窓のむこうから、グラウンドの喧騒が聞こえてくる。他の生徒達は部活動に励んでいるというのに、私は、こんなところで何をやっているんだろう。
 自分のしていることがひどく恥ずかしいことに思えてきて、にわかに動揺する。気持ちの揺れが手にも伝わり、小さく震える指先が吉住くんの頬をかすめた。
「ふ──くすぐったいよ」
 吉住くんが、かすかに笑う。
「ご、ごめんなさい」
 あわてて引こうとした両手を、吉住くんが素早くつかみ、握りしめた。
「っ!?」
 驚きのあまり、言葉も出ない。手を振りほどこうともがいたけど、吉住くんの力は強く、びくともしない。
「吉住くん、痛い」
 私の抗議の声にも、吉住くんは平然としたものだ。
「ああ、ごめんね。でも、伊藤さんに任せていたら、いつまでたっても終わりそうにないからね」
 そう言うと、私の両手を握ったまま、自分の眼鏡のつるのところまで導く。
「ここまで来れば、もう大丈夫だよね」
 ようやく両手が解放される。強く握られていたせいか、指先に軽いしびれを感じる。
 このまま吉住くんの言いなりになるというのもしゃくなので、ささやかな抵抗を試みる。
「こんなことしなくても、吉住くんが自分で外して見せてくれれば、それですむんじゃないの?」
 私の言葉に、吉住くんがすうっと目を細めた。
「本当に何かを望むのなら、自分から動かないとね」
 ……要するに、私には他の選択肢は与えられないということらしい。
 仕方なく覚悟を決め、しびれの残る指で眼鏡のつるをつまむ。指先に力をこめ、思い切って眼鏡を引き抜いた。

 ──心臓が、止まるかと思った。
 初めて直に見る吉住くんの目が、思いの外優しかったから。いつもの冷たささえ感じさせる目つきが嘘のように、穏やかな眼差しをまっすぐにこちらに向けてくる。
 この眼差しに、深い意味なんてない。あるはずがない。
 吉住くんはかなり目が悪いから、眼鏡を外したこの状態では、ほとんど何も見えていないに違いない。だから、別に私を見ているわけではないはずだ。
 でも……。
 私は、その視線を外すことができない。ただ、無言のまま静かに見つめ返すだけ。
 呼吸をすることさえ苦しいくらいの沈黙。窓の外から聞こえてくる音も、現実味を失い、どこか遠い世界の出来事のように思える。
 その静寂に私が耐えきれなくなった頃、吉住くんが静かに口を開いた。
──これで満足?」
「あ、うん」
 あわてて眼鏡を吉住くんの手に押しつける。
「おかげで気が済みました。ありがとう」
 そう言うなり教卓に駆け寄り、出席簿を手に取る。一刻も早く、この場を離れたかった。
「それじゃ、私はもう帰るから」
「それだけですむと思ってる?」
「え?」
 驚くほど近くで聞こえた声に、振り返る。目の前に吉住くんが立っていることに気づき、息を呑む。
「吉住くん……何?」
「そんな通り一遍の言葉だけで済ませるほど、伊藤さんは礼儀知らずなのかな」
「礼儀……って、そんな」
 再び眼鏡をかけた吉住くんは、すっかりいつもの吉住くんに戻っていた。
「伊藤さんの望みを叶えてあげたんだから、お返しに俺の頼みも聞いてくれるよね?」
 私に一歩近づくと、吉住くんは教卓に軽く両手をついた。
 一気に退路を断たれてしまったことに気づき、うろたえる。後ろには教卓、前には吉住くんが立ちふさがり、左右は彼の腕に阻まれている。吉住くんを押しのけでもしない限り、ここから抜け出すことなどできそうにない。
「それは……私にできることなら。でも」
「大丈夫、簡単なことだよ。そして、伊藤さんにしかできない」
 さらにじわりと歩みよる吉住くん。私はといえば、狼狽を通り越して、恐慌状態に陥っていた。
 な、なんでこんなに近づくの? だって、身動きしたら身体が当たるくらいの距離よ? こんなの、ありえない。なにかの間違いだよね?
 そうこうするうちに、なおも吉住くんが近寄ってくる。
 ちょっ……近すぎだってば! いきなりこの距離は、反則でしょ。
 吉住くんから少しでも離れるために、後退りしようとする。でも教卓があるせいで、それもかなわず、仰け反るような格好になってしまう。
 あわてて体勢を立て直す私を見て、吉住くんが笑みをもらす。いつもの、片方の唇の端だけ上げる笑い方。その表情も嫌いじゃないと思っていたけど、こんな状況で見ると凶悪そのものとしか思えない。
「……いいよね?」
 いいって、何が。そう聞き返したいけど、もはや声にならない。我知らず、手にしていた出席簿を胸に抱きかかえてしまう。
 吉住くんが含み笑いをした。
「そんなに怯えなくてもいいのに」
 そんなこと言われても。この状況で、怯えるなと言う方が無茶だと思う。だって、今の吉住くん、なんか怖いもの。
 次の瞬間、吉住くんの右手が私に向かって伸びてくるのが視界にはいった。出席簿を抱く手に力がこもる。
 伸びてきた手が、見る間に私の背中に回される。
 な、なんなの。何をするつもりなの……?
 思わず顔を背けたその時、三つ編みにまとめた髪をぐいと引っぱられた。え? と思う間もなく、髪がさらさらと胸元に零れ落ちてくる。
 何事かと吉住くんに目をやると、その手の中に私の髪を結んでいたはずのゴムがあった。
 髪を……解かれた?
 顔を上げると、吉住くんが満足そうに笑った。
「一度、伊藤さんの髪を下ろしたところを見てみたかったんだよね」
「……吉住くんの頼みって、もしかして、それ?」
「そうだよ」
 こともなげに言ってのける吉住くん。
 なんだ、変なことされるわけじゃなかったんだ。ほっとした途端、手から力が抜けて、抱えていた出席簿を取り落としてしまった。
 私より先に吉住くんがかがみ込み、拾いあげた出席簿を私に手渡してくれる。
 私が謝礼の言葉を口にしようとした瞬間、耳元に囁きが落とされた。
──何されると思ったの?」
「な……っ!」
 吉住くんの愉快そうな笑顔に、頭の中が真っ白になる。
 ……見透かされてる。私が誤解するのを分かってて、この人はわざとからかってたんだ。なんて意地が悪いの。
 出席簿を握る手がぶるぶる震える。これで、思いっきりぶん殴ってやりたい。
 恥ずかしさと口惜しさと怒りとがないまぜになって、頭の中をぐるぐる回っている。多分、今の私は真っ赤な顔をしていると思う。
 何か言い返してやりたいけど、今何を言ってもこの人を面白がらせるだけに決まっている。
 憤りをこらえつつ鞄をつかみ、吉住くんをぐっと睨みつける。
「私、もう帰るから。そのゴム、返して」
「ああ、ちょっと待って。俺も帰るから、一緒に帰ろう」
 私が怒っていることくらいわかっているはずなのに、吉住くんはまったく動じる様子もなく答える。その態度に、逆に私の方が動揺してしまう。
「一緒にって……どうして?」
「出席簿を返しに職員室まで行くんだよね? 俺も鍵と学級日誌を持って行かなきゃいけないから」
 行き先が同じだからって、どうして私達が行動を共にしないといけないのか。まったく、意味がわからない。
 混乱する私をよそに、吉住くんは手早く帰り支度を済ませると、私の肩を軽く押した。
「お待たせ。じゃ、行こうか」
 吉住くんに促されるまま、教室を出る。
 教室のドアに鍵を掛けると、吉住くんは鍵と私の髪ゴムを制服の胸ポケットに入れてしまった。
「……返してくれないの?」
 恨めしい気持ちで尋ねる。多分、この様子だと聞いても無駄だとは思うけど。
 案の定、吉住くんはにこりと笑みを浮かべて言い放つ。
「もう帰るだけなんだから、わざわざ結び直すことないよ。それに、そうやって下ろしてる方が伊藤さんに似合ってる」
 いきなりの台詞に、頬が熱くなる。恥ずかしいのをごまかすために、一応抗弁を試みる。
「でも……先生に見とがめられたら」
「そんなことでどうこう言う先生なんていないよ。もし何か言われても、俺がなんとかするから大丈夫」
 そう言うと、吉住くんは鞄を持っていない方の手を伸ばし、私の手を取った。
「さ、帰ろう」

 吉住くんの大きな手にすっぽりと包まれた自分の手を見て、私は自分が吉住くんに囚われてしまったのだと悟った。そして、一度捕らえられたら、この手からはもう逃れることはできないということも。
 でも。
 それならそれでかまわないと思ってしまった。私に触れるその手が、言葉や態度とは裏腹に、あまりに優しくて温かかったから──


とらわれの ─終─



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