ある秋の日。
人気のない夜の稽古場に座り込み、私は一人ためいきをついていた。
「──困ったなぁ」
先程から何度も繰り返している言葉を、再び口にする。そう言ったところで何の解決にもならないことは重々承知しているけれど、他にどうしていいかわからないというのもまた事実なのだ。
「なんでこんなこと引き受けちゃったんだろう」
私の目の前には、一冊の台本。表紙には大きく『闇の森の奥の闇』と印刷されている。何度も読み込んだためあちこちに折り目がつき、本文には至る所に書き込みがある。
劇団・夢想人の次回公演の台本。そして、この台本こそが、今の私の苦悩の元凶なのだ。
事の起こりは、数ヶ月前。私のバイト先に一人の女性が現れたのだ。
麻子と名乗った彼女は、いきなり私に舞台に出る気はないかと聞いてきた。
それまで芝居などにはまったく縁のない生活を送っていた私は、いきなりの申し出に驚き、即座に断ろうとした。
そんな私に、彼女は言った。
「自分では気付いていないかもしれないけど、あなたは最強の武器を持っているのよ。その効力を、試してみたいとは思わない?」
彼女の言う私の『武器』とは、声のことだった。自分にとってコンプレックスでしかない私の低い声が、武器であると彼女は言ったのだ。
結局……彼女に言いくるめられる形で、私は彼女がスタッフとして所属する小劇団の次回公演に、一度限りという約束で出演することになってしまった。それも、沢木恵としてではなく、佐脇ケイという男として──。
目の前の台本に手をのばし、パラパラとページをめくる。
私が演じるのは、森の奥の洋館に一人で住む青年。彼は、呪いにより醜い容姿にされているため、常に仮面を被り、心を閉ざしている。
そんな彼の元に、一人の美しい少女が現れる。森の中で道に迷った末、館にたどりついた彼女は、そこで暮らすようになる。
心優しい彼女は、青年の孤独を知り、いつしか彼を愛するようになるのだが、青年は決して心を開こうとはしない。
やがて、青年にかけられた呪いは少女にまで力を及ぼしはじめ、病に蝕まれた彼女は青年の目の前で倒れてしまう。その時になってはじめて、青年は自分が少女を愛していることに気付き、彼女を抱きしめ涙を流す。
すると、涙とともに青年の顔を覆っていた仮面が剥がれ落ちる。少女の愛と青年の無垢な涙により、呪いがとけたのだ。青年の腕の中で少女も息を吹き返し──。
話の内容は、大体そんなところだ。私が素人であることも考慮して、青年のセリフは極力少なくしたのだと、台本を書きあげた座長は言っていた。
とは言っても、芝居の経験などまったくない私にとっては、大変であることに違いはなかった。舞台での発声方法も、セリフ回しや立ち方歩き方といった演技の基本すら、私は知らなかったのだから。
そのため、ヒロイン役の関香奈実から、私はこの数週間猛特訓を受けていた。
はじめて得た大役だから、この公演を失敗させるわけにはいかないのだと、彼女は私の面倒をみる理由を説明してくれたけれど……そういう事情がなくても、彼女は親身になってくれていたのではないかと思う。彼女は、見た目こそ小柄で少女っぽいのだが、実は見かけによらず姉御肌で、面倒見の良い女性だから。
彼女の協力の甲斐あって、私の演技も最近ではなんとかみられるものになってきたようだ。……唯一、ある場面を除いては。
先程から何度もくり返し読んだためにすっかり折癖が付いてしまったページを開く。どうしても、うまく演じることができない場面。この芝居で一番大事な、クライマックスのシーン。
『青年、倒れているヒロインを抱き起こし、胸に秘めていた思いをうちあける。
──ティアナ。……好きだ。お前を愛している。だから……死ぬな。もう一度目を開けて、俺に微笑みかけてくれ……!』
このセリフが言えない。どうしても、照れて口ごもってしまうのだ。
最初のうちは辛抱強く稽古につきあってくれていた香奈実さんも、しまいにはさじを投げてしまった。
「話にならないわ」
呆れたような口調で香奈実さんは言った。
「こんなんじゃ、練習にならない。ケイ、あんた今日は一人で居残んなさい。明日までに、少しはまともな芝居ができるようにしておくこと。いいわね?」
そんな脅し文句を残して香奈実さんが他の劇団員たちと帰っていったのが、今から一時間前のこと。
それからずっと、一人きりで練習を続けているけれど、一向に進歩する様子がない。そうこうする間に夜は更けてゆき、もう外は真っ暗になってしまった。
「お腹も減ったしなぁ……もう帰っちゃおうかな」
そうつぶやいてみたものの、このまま帰ったのではまた明日香奈実さんに怒られるのが目に見えている。
怒られること自体も嫌だけど、自分のせいで稽古が滞ってしまうことがなによりつらい。香奈実さんをはじめ、団員たちはみんな、アルバイトや本業の合間を縫って稽古場に集まっているのだ。
みんなの貴重な時間を、私のせいで浪費してしまっている……。
それを思うと、途中で投げ出して帰ることもできなくて、私は台本を手に取ると、問題のセリフを再び口にした。
「『……好きだ。お前を愛している──』」
と、その時。背後でがたんと物音がした。
……この部屋には、私しか居ないはずなのに?
驚いて振り返ると、そこには──
「ユ、ユキ!?」
ユキこと、藤島佑紀が小首を傾げて立っていた。
優しげな眉のラインに黒目がちのつぶらな瞳。透きとおるような白い肌、形の良い唇にはローズ系のルージュ。柔らかそうな栗色の髪はゆるくウェーブを描きながら肩に流れ落ちている。
その身にまとっているのは、ふわりとしたデザインの淡いピンク色のワンピースとボレロ風のカーディガン。その装いは、ユキを実際以上に華奢に見せている。知らない人の目には、まず間違いなく清楚な美少女と映ることだろう。
ユキは、少し前まで劇団・夢想人に所属していて、この数年間ヒロイン役を務めていた。その可憐な容姿と抜群の演技力で多くのファンの心をつかみ、それまで無名だった劇団を一躍人気劇団の座にまで押し上げた立て役者だ。訳あって、数ヶ月前に夢想人をやめてしまったけれど。
と言っても、私が夢想人に参加するようになったのはユキがやめた後のことなので、そういった話はすべて麻子さんや香奈実さんからの受け売りにすぎない。
でも、素人の私の目から見ても、ユキの存在感や演技力には、ずば抜けたものがあると思う。以前麻子さんに過去の公演のビデオを見せてもらった時も、ユキが画面に登場した瞬間、目を奪われてしまったほどだ。
「ユキ……どうしてここに?」
「うん。そばを通りかかったらまだ電気がついてたから、様子をのぞきに」
柔らかい声でそう言うと、ユキはくすりと笑みをもらす。
「そうしたら、いきなりあんな情熱的な告白をされて……驚いちゃった」
「こ、告白って」
私はあわてて否定する。
「あれは、今度の公演のセリフで……ユキに言った訳じゃなくて……」
しどろもどろになる私を見て、ユキはさらにくすくすと笑う。
ユキにからかわれているのだとようやく気付き、私は軽くためいきをつく。
「わかっててからかうなんて、ユキって人が悪いよね」
「そんなことないと思うけど?」
悪びれもせずに答えるユキ。
天使のような顔をしているくせに、ユキは結構意地悪だ。しかも、こんなに可愛いのに男だなんて、ほんとサギだと思う。
女の私が逆立ちしても手に入れることのできない容姿を持つ、ユキ。彼の姿を目にするたび、私のコンプレックスが刺激される。
もちろん、女に見えるようにユキがたゆまぬ努力を続けていることは知っている。容姿を磨くだけでなく、ちょっとした仕草や言葉遣い、話し方にも細かく気を配っているのだと、香奈実さんから聞いた。
今こうして女装しているのだって、次の公演に向けての役作りのためだ。ひとたび稽古に入ると、その公演が無事千秋楽を迎えるまで、ユキは女の格好で過ごすのだそうだ。
そういうところはすごいと思う。素直に尊敬する。
でも、理屈ではないのだ。自分がこうありたいと思う理想の女の子の姿をした男を目の前にして、平気でいられるほど、私は人間ができていない。
わかっている。これは、ひがみだ。見苦しい嫉妬だ。自分でも、いやになってしまう。
そんな私の心の葛藤など気付く様子もなく、ユキは周りを見回す。
「ケイ一人? 他の団員は?」
「とっくに帰っていったよ。椅子、どうぞ」
稽古場の隅に置いてあったパイプ椅子を持ってきてすすめると、ユキは優雅に腰を下ろした。座り方ひとつをとってみても、ユキの振る舞いにはまったく隙というものがない。
「それで?」
スカートの裾を整えながら、ユキが問いかけてくる。
「みんなは帰ったのに、どうしてケイ一人残ってるわけ?」
「それは……俺がヘタクソだからだよ」
「どういうこと?」
怪訝そうな顔をするユキに、問題のページを開いた台本を手渡す。
「このシーンがあまりに下手で話にならないから、一人で練習しとけって、香奈実さんが」
「これ、次の公演の台本?」
そう訊きながら、ページを繰るユキ。
「たしか、香奈実さんがヒロイン役なんだよね。で、ケイがその相手役、と」
ユキはそのままざっと台本を読み進めてゆく。
「ふーん。座長お得意の甘々ファンタジー路線か。座長って、顔に似合わずこういうベタ甘なの好きだよね」
「ベタ甘……まぁ、確かに。顔に似合わずってのは、とりあえずノーコメント」
「なるほどね」
そう言うと、ユキは台本を閉じた。
「事情は大体わかったけど、ケイを一人で置いていくのは感心しないな」
「どうして?」
「一人で練習してうまくなるわけないじゃない。ケイがヘタクソだって言うんなら、なおのこと」
ユキの言うとおりかもしれない。実際、一時間ほど一人で練習したけど、ちっともうまくなっていないし。
でも、他の団員が帰ってしまった以上、他にどうしようもないわけで。
「大丈夫」
ユキが私の気持ちを見透かしたように嫣然と笑う。
「私が稽古に付き合ってあげるから」
「え、ええっ!? そんな……いいよ、付き合ってくれなくても」
「どうして?」
不思議そうに首をひねるユキ。
そんなことを訊かれても、困ってしまう。まさか、ユキといるとなけなしの女としてのプライドがズタボロになってしまうからいやなのだ、などと言えるわけがない。
「えーっと、ユキに悪いっていうか、畏れ多いっていうか」
「なにそれ」
ぷっと吹き出すユキ。
「そんなこと、気にすることないのに。大体、こっちにはケイに負い目があるんだし」
「負い目?」
「そう。ケイがこんな世界に引きずり込まれたことに対する責任が、私にはあるから」
確かに、そもそもユキが夢想人をやめなければ、香奈実さんがヒロインを演じることもなく、したがって私がこの劇団の公演に参加するようなことはなかったはずだ。そういう意味では、ユキに責任があると言えないこともない。
「ね? だから、遠慮することはないんだよ」
「別に、遠慮してるわけじゃないんだけどなぁ……」
私のそのつぶやきは、ユキの耳には届かなかったようだ。
「じゃ、早速始めようか。えーと、まずヒロインが舞台中央に倒れてるんだっけ。この辺でいいかな」
台本を持ったユキが稽古場の床の上に直接腰をおろそうとするのを見て、私はあわてて立ち上がる。そんなことをしたら、ユキの服が汚れてしまう。
「ちょっと待って。なにか、下に敷くものを取ってくるから」
奥の倉庫兼更衣室になっているスペースに駆けこんで、辺りを見渡す。様々な大道具・小道具に混じって、次回公演の衣装のための布地が置いてあるのが目についた。でも、さすがにそれを勝手に使うわけにはいかないだろう。壁際に積み上げられた衣装ケースの中には、使っていいものもあるかもしれないけれど、新参者の私には、どこになにがあるのか、皆目見当がつかない。
仕方なく、ハンガーに掛けてあった自分の黒い薄手のコートを手に取った。こんなものでも、なにもないよりはずっとましだろう。
急いでユキの元に戻り、床の上にコートを広げる。
「はい、どうぞ。この上に横になればいいよ」
「これ……ケイの上着じゃないの?」
「うん、ごめん。適当なのが他に見つからなくて」
ユキが驚いたような顔をした。
「そうしたら、ケイの服が汚れるじゃない」
「そんなの、後ではたけば大丈夫だよ。ユキの服を汚すより、その方がずっといい」
それは、本心から出た言葉だった。私には絶対に着られないような、ユキのフェミニンな洋服。それが、稽古場の床の埃にまみれるなんて、とても耐えられない。
「そう……? それじゃ、お言葉に甘えて」
そう言いながら、ユキはコートの上にそっとその身を横たえた。できるだけコートを汚さないよう、気を遣っているのだろう。
それにしても……。横たわるユキの姿を目にして、またしても複雑な気持ちがわき起こってくる。
私とそう身長は変わらないはずなのに、どうしてユキはこんなに華奢に見えるんだろう。しかも、ピンクや赤といった女らしい色合いの服が、本当によく似合っている。
それにひきかえ、私の今の格好ときたら。黒のジャージの上下に、首に巻いたタオルのおまけ付き。稽古着だから仕方ないとはいえ、そのあまりの落差に泣けてくる。
「ケイ、どうしたの? 早く始めようよ」
ユキに言われて、はっと我に返る。今はそんなことを考えている場合じゃなかった。
「ご、ごめん」
あわててユキの傍にひざまずく。
「じゃ、とりあえず好きなようにやってみて?」
「うん……」
目を閉じたユキの背中に手を回し、その体をそっと抱き起こす。その瞬間、ふわりと甘やかな香りが私の鼻孔をくすぐった。女物の香水の香りだ。そんなところにも、ユキは気を配っているんだなと感心した。
その一方で、抱き心地が香奈実さんとは随分違うということにも気がついた。香奈実さんの体の柔らかさにくらべたら、ずっと筋肉質な感じだ。どんなに女らしく見えても、やっぱりユキは男の人なんだと、私ははじめて実感した。
「……ケイ?」
いつまでたってもセリフを口にしない私に焦れたのか、ユキが目を開けて私の顔を見上げる。
「あ、ごめん。すぐ始めるから」
再び目を閉じたユキに気付かれないよう、そっとためいきをつくと、私は覚悟を決めた。いつまでもこうしていても、無駄に時間が過ぎるだけ。さっさとやって、早く終わらせてしまおう。
大きく息を吸い込むと、私はなるべくユキを見ないようにしてセリフを口にした。
「『──ティアナ。……好きだ。お前を愛しているぅ』」
……最悪だ。緊張のあまり、声が裏返ってしまった。思わず頭を抱えたくなる。
腕の中のユキが、そっと目を開けた。その瞳には、困惑の色がありありと浮かんでいる。
「……確かにひどいね」
「うん……ひどいね。今のは特にひどかった」
ユキは、体を起こすと首を傾げた。
「他のシーンはそうでもないんだよね? どうしてここだけうまくできないの?」
ユキに正面から問い詰められて、私は困惑する。ラブシーンが恥ずかしいからなんて理由を、この人に理解してもらえるかどうか。
「……そもそも、好きだのなんだのって、人前で言うもんじゃないと思うんだ」
私の言葉に、ユキは目をぱちくりさせる。でも、意外なことに、笑ったり呆れたりはしなかった。
「個人的には、その意見には賛成。そういうことは、二人きりのときに言うべきだと思う。でもね」
困ったように笑うユキ。
「これは、芝居の台詞だから。人前で言わなきゃ意味がない。それはわかるよね?」
「わかってる……。でも、香奈実さん相手に言おうとすると、どうしても照れちゃうんだ」
「それは、相手が香奈実さんだと思うからだよ。そうじゃなくて、自分の大切な人に言ってると思ってやってみたら?」
「大切な人……?」
「そう。例えば恋人とか、家族とか、友達とか。失いたくない大切な人。そういう人を、今まさに失おうとしているんだと想像しながらやってみたらどうかな」
私の大切な人……?
ユキの言葉を頭の中で反芻する。
今の私には恋人と呼べるような人はいないから、まずそれは除外。
あとは、家族や友達。実家を離れて一人暮らしを始めたときは、それなりに寂しい思いもしたけど、そういうのとはちょっと違う気がする。友達も……学生時代の友達とは、卒業して疎遠になったとはいえ、会おうと思えばまたいつでも会えるわけだし。どうも現実味に欠ける。
他には……。
考えるうちに、ふと思いあたる。
麻子さんや座長、香奈実さんをはじめとする劇団・夢想人と、お芝居の世界。最初はあまり乗り気ではなかったけど、今ではすっかり馴染んだ場所。
今の私にとって、ここはとても大切な場所なんだ。
でも、この公演が終われば、私はまた元の場所に帰る。沢木恵としての、現実の世界に。
やがて必ず訪れるその瞬間を思い浮かべながらやってみたらどうだろう。それなら、できるかもしれない。
「もう一度、試してみてもいいかな」
私がそう告げると、ユキはにっこりと微笑んだ。
「もちろん。何度でもつきあうよ」
コートの上に横たわったユキの体を腕にかき抱く。離れたくない、大好きな人たち。やがてくる彼らとの別れの瞬間を脳裏に思い描く。
──離れたくない。このあたたかい場所を、なくしたくない。
そんな思いを、セリフにこめる。
「『──ティアナ。……好きだ。お前を愛している』」
セリフを口にするうちに、気持ちがだんだんと高ぶってきて、目頭が熱くなってきた。涙をこらえながら、声を振り絞るようにして、先を続ける。
「『だから……死ぬな。もう一度目を開けて、俺に微笑みかけてくれ……!』」
「ケイ、痛い」
ユキに言われてはっと我に返る。どうやらセリフにのめりこみすぎて、ユキを力の限り抱きしめていたらしい。
「ご、ごめん」
あわてて腕の力を緩める。
「ケイって、痩せて見えるのに案外馬鹿力なんだね」
私の腕の中で、ユキが苦笑する。
「でも、今のはなかなか良かったよ」
「え、本当?」
「うん。ただ、声がこもってしまうから、うつむかずになるべく前に──客席に向かって言うようにね。ケイの一番の強みはその声なんだから、できるだけそれを活かすようにしないと」
「ああ、なるほど。ありがとう……」
そう言ってから、今の二人の状態に気付く。力をゆるめはしたものの、私の腕はユキの体を抱きかかえていて──そうしないとユキが倒れてしまうからなんだけど──でも、これってなんだか妙な体勢で……。
私が戸惑っていると、ユキの表情がすうっと変わった。いつもの柔らかい雰囲気が消えて、真剣な表情になる。美少女にしか見えなかったユキの顔が、急に見知らぬ男の顔に見えてきて、私は驚く。
ユキは元々女顔なんだと思っていたけど、それだけじゃなくて、女に見えるよう常に表情を作っていたんだなぁ、などとぼんやり考えているうちに、ユキの手が私の背中に回されていた。
「え? ちょっと、ユキ?」
「黙って」
ユキの顔が少しずつ近づいてくる。
ええと、これはどういうことなんだろう? それにしても、やっぱりユキってまつげが長いなぁ。
……って、ええっ!?
気付いたときには、息がかかる距離までユキの顔が近づいていた。それとも私の方が引き寄せられていた?
いったいどちらなのか、その判断もできないほど、私は混乱していた。至近距離でユキに──男の顔をしたユキに見つめられて、冷静でいられる方がおかしいと思う。
背中に回された手に、さらに力がこめられ、二人の唇が触れかけたそのとき──。
──ぐーーーーー
間の抜けた音が稽古場に響いた。
「……ぷっ」
ユキの腕から一気に力が抜け、ユキは笑いながらコートの上に倒れ込んだ。
「ケイ……せっかくいいところだったのに」
「ご、ごめん」
思わず私は謝っていた。私のお腹が大きな音で自己主張をしたからといって、謝らなければならない謂われはないはずだけど。なんとなく、謝った方がいいような気がしたのだ。
「まぁ、こんな時間まで稽古をしてたら、お腹もすくか」
そう言うと、ユキは立ち上がった。
「じゃ、なにか食べに行こう。おごるよ」
「え、稽古につきあってもらった上に、そんなの悪いよ」
あわてる私に、ユキはいつもの「美少女」の笑顔を向ける。
「先輩がおごるって言ってるんだから、素直に言うことをききなさい」
「は、はい」
「じゃ、着替えておいで。ここは片付けておくから」
急いで更衣室に駆けこもうとした私を、ユキが呼び止めた。
「ケイ、これ」
振り向く私に、ユキがなにかを投げてよこす。受け取ってみると、それは私のコートだった。
「五分以内。それ以上かかったら、容赦なく見捨てていくからね」
「はいっ!」
更衣室に飛びこみ、後ろ手でドアを閉めると、急に膝の力が抜けて、私はその場にしゃがみ込んだ。
胸に手を当ててみるまでもなく、鼓動が激しくなっているのがわかる。頬も燃えるように熱い。きっと、今の私は真っ赤な顔をしているだろう。
それにしても。さっきのユキの行動は、いったいなんだったんだろう。まさか……私にキスしようとした? まさかね?
だって、ユキは私のことを男だと思っているはず。男にキスするような趣味は、ユキにはないと思う。世の中にはそういう趣味の男の人もいると私も知っているけど、ユキはそういうんじゃないはず。
……きっと、芝居の続きだったんだ。そうに違いない。そうじゃないと困る。そういうことにしておこう。
強引にそう決めつけて無理矢理自分を納得させると、私は大あわてで稽古着から私服に着替え始めた。急がないと、ユキに置いて行かれてしまう。
「ケイ? 早くしないと行っちゃうよ?」
「はい、今行きます!」
着替え終わった私服の上に、先程までユキに貸していたコートを羽織る。その瞬間、ユキの甘い残り香がふわりと私の体を包んだ。
一瞬、ユキに抱きしめられているような錯覚に陥って、私の胸は大きく音をたてた。
君の香りに包まれて ─終─
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