ねじれる(前編)後編




 ──その森では、なにもかもが、ねじれていた。

「この森の奥には、秘密が眠っているのよ」
 そう言って笑ったのは、誰だっただろう? ──


 私には、幼い頃の記憶がない。正確には、九歳までの記憶が、ぽっかりと抜け落ちているのだ。
 理由はわからない。父にも、心当たりはないらしい。ただ、その頃私の母が失踪するという事件があった。もしかしたらそれが関係しているのではないかと父は言う。
 だから、私には母に関する記憶もない。父と二人で暮らしてきた思い出があるだけだ。
 私は、母の写真すら見たことがない。母が姿を消したとき、父がすべて処分してしまったからだ。
 なぜそんなことをしたのか、父に一度尋ねたことがあるけれど、あまりに父が悲しそうな顔をするので、それ以上聞き出すことは私にはできなかった。
「──美しい人だった」
 父はそれだけは教えてくれた。
「今のおまえと、とてもよく似ていた。早咲さき、おまえは美咲の若い頃にそっくりだよ」

 私の祖父に当たる人は、小さな会社を経営していた。父はその片腕と呼ばれた部下で、祖父に気に入られて入り婿となり、後を継いだのだ。
 その祖父も、私が生まれてすぐに病に倒れ、帰らぬ人となっていた。
 だから、母が消えてからの十年間、私たちは二人きりで支え合って生きてきた。それは、私が大学生になった今でも変わらない。


「早咲ちゃん!」
 三時限目の心理学の講義が終わり、帰ろうとしているところに背中ごしに声を掛けられた。
 振り向くと、そこに立っていたのは同じクラスの友人である長尾知子だった。
「ああ、知子ちゃん」
「今日はこれで終わり? だったら、駅まで一緒に帰らない?」
「うん、いいわよ」
 隣に並んだ彼女が重そうに鞄を抱えているのに気づき、ちらりと中をのぞく。そこにはぎっしりと本が詰め込まれていた。
「すごい本……。どうしたの?」
「ああ、これ? 社会思想史のレポートを書くのに必要だから、昼休みに図書館で借りてきたの」
 彼女の選択している社会思想史の担当教授は、厳しいことで有名だ。単位を無事に取得するには、いくつものレポートと試験という試練を乗り越えなくてはならないという話だ。社会思想史は必須科目ではないので、私は選択していないのだけど。
「それ、全部資料? 大変ね」
「うん。でもね、これでもまだ足りないんだ。どうしても一冊見つからない本があるんだよね。古い本みたいだから、図書館にないとなるともうお手上げなの」
「ふうん……それ、どんな本?」
「ええっと、ちょっと待って」
 知子ちゃんは鞄の中から手帳を取り出し、その一ページを開いて私に見せた。
「このチェックのついた本なんだけど、早咲ちゃん、どこかでみたことない?」
 そこに書かれていた書名には、見覚えがあった。
「この本……父の書斎で見かけたことあるわ」
「本当に? 早咲ちゃん、それ借りられないかな。図々しいお願いだとは思うけど、私の単位がその本にかかってるの!」
 知子ちゃんの目は実に真剣だ。他ならぬ友人の頼みとあれば、なんとか聞いてあげたいと思う。
「いいわ。帰ったら、父に頼んでみる」
「ありがとう! 早咲ちゃんのおかげで、なんとかまともなレポートが書けそうよ」
 素直に喜ぶ知子ちゃんを見ていると、微笑ましい気分になる。ぬか喜びに終わってしまったら申し訳ないとも思うけど、おそらくそんなことにはならないだろう。私の頼み事を父が断った事など、これまで一度もなかったのだから。

 そう。父は私に甘い。その反面、ちょっと過保護で過干渉でもある。
 父一人子一人だから、そんなものなのかもとも思うけれど、大学生になった娘に対する態度としては、いささか度が過ぎるような気もする。
 たとえば──門限は七時。夕食は必ず家で取ること。毎日その日の出来事を報告すること。夜間の外出は禁止。ボーイフレンドを作ることすら認められなくて、クラスの男の子から電話でも掛かってこようものなら、あれは誰だ、お前とはどういう関係なのだと執拗なまでに問い質される。
 そのおかげで、コンパなどに出席することもできない。まあ、私自身別に参加したいとも思わないから、それはそれでかまわないのだけど。まわりからつきあいの悪い人だと思われるのは、少し困りものだ。
 そんな私でも、気にせず接してくれる知子ちゃんのような友人は、とても貴重な存在だ。だからこそ、頼られればできる限り力になりたいと思う。

「長尾!」
 学生食堂の脇を歩いていると、誰かが知子ちゃんに声を掛けてきた。
「ああ、林。なに、どうしたの?」
「明日の部会のことなんだけどさ──」
 話の内容から察するに、声を掛けてきたのは知子ちゃんのサークル仲間の男子学生らしい。
 何気なくその相手の顔を見て──ぎょっとする。派手な黄色いセルフレームの眼鏡が、真っ先に視界に飛びこんできたからだ。

 私は、セルフレームの眼鏡が苦手だ。特に、フレームの黄色いタイプの物が。物心ついたときからそうだった。
 そんな眼鏡を目にしただけで、血の気が引き、全身の肌が粟立つ。だんだんと動悸が激しくなり、息も苦しくなる。ひどいときには、吐き気を催すこともある。
 なぜそうなってしまうのか、自分でもわからない。けれど、何か恐ろしいことが起こるような気がして、平静を保っていられなくなるのだ。

「……早咲ちゃん、大丈夫!?」
 その言葉に我に返ると、心配そうにのぞき込む知子ちゃんと目があった。
「あ……知子、ちゃん」
「どうしたの? 顔、真っ青だよ。どこかに座って休む?」
 眼鏡の青年の姿は、もうなかった。どうやら、話を終えて立ち去ったらしい。
「ううん、大丈夫。もう平気だから」
「でも……こんなに震えてるよ?」
 言われてはじめて、自分の身体が小刻みに震えている事に気づく。眼鏡を見ただけでこんな風になってしまうなんて。予想外に重症のようだ。
「本当に、すぐ治まるから」
 知子ちゃんを安心させようと、無理に笑顔を作る。それでもまだ不安げな表情を崩さない彼女を安心させるために、私は簡単に事情を説明することにした。
「……あのね、私、今の人が掛けてたみたいな眼鏡が苦手なの」
「眼鏡が? いったいどうして?」
「……わからない。なにか怖い思い出があるのかもしれないけど……覚えてないの」
 訝しげに首を傾げる知子ちゃん。私の幼少時の記憶がないことを彼女は知らないから、あまりぴんとこないのかもしれない。だからといって、そんなことまで話すつもりはさらさらないのだけど。
「なにか、トラウマがあるのかもね」
 冗談めかしてそう言うと、ようやく知子ちゃんが頬をゆるめた。
「それ、さっきの心理学の講義の受け売りでしょ。──でも、そんな冗談が言えるのなら、大丈夫そうね。顔色もだいぶ良くなったみたいだし」
「うん。心配かけて、ごめんね」
 再び正門に向けて歩きだしてから、念のために先程の件についてフォローしておく。
「私、ちょっと感じ悪かったよね。さっきの人、気を悪くしてないかな」
「林はそういうの全然気にしないタイプだから、大丈夫だよ。それに、苦手な物は仕様がないんだし」
「だといいけど」
「それにしても」
 知子ちゃんが思いついたように口を開く。
「ああいう眼鏡が苦手って、大変だよね。もし、好きになった人が掛けてたら、どうする?」
 一瞬、言葉に詰まる。
 私が好きなのは父みたいな真面目なタイプの人で、あんな眼鏡をかけているような人を好きになることはない。そう答えるのは、やはり憚られた。過去の経験上、そんなことを言ってもファザコン──もしくはエレクトラコンプレックス扱いされるのがオチだと分かっているから。
 それに、そんな聞きようによっては悪口ともとれることなど言わない方がいいに決まっている。ああいうタイプが好きだという人も、世間にはいるのだろうし。
「そうよね。まさか、その眼鏡嫌いだからやめて、なんて言うわけにもいかないし」
 本心を隠して私がそう答えると、知子ちゃんは楽しそうに笑った。

 駅前で知子ちゃんと別れると、私は一人自宅に続く坂道を上った。私の家は、大学の最寄り駅から歩いて数分の距離にあるのだ。
 坂の中程には、鬱蒼と茂る木立があり、その奥には薄暗い森が広がっている。その森を、私は「ねじれる森」と呼んでいた。
 この森では、なにもかもがねじれているから。森の奥に続く道も、そこに生える木々も。
 昼でも暗いこの森は、そばを通るだけでも不気味で、近所の人もほとんど足を踏み入れることはない。
 私自身、父からこの森には近づかないようきつく言い渡されていることもあり、いつも足早に通り過ぎるだけだ。
 いつものように、そちらには目を向けないようにしながら森の傍を足早に歩いていると、不意に女性の声が聞こえた、ような気がした。
「……え?」
 思わず足を止める。振り返ってみても、周囲には誰の姿もない。
 今のは空耳に違いないと自分に言いきかせ、その場から立ち去ろうとする。そんな私に追いすがるかのように、再び声がした。先程とは違い、かなり鮮明な声が。
「……この森の奥にはね、早咲、秘密が眠っているのよ」
 背筋がぞっとした。その声が、明らかに私に向けられたものに思えたからだ。
 そんなはずはない。誰もいないのだから、そんな声が聞こえるはずなどない。怖い怖いと思っているから、そんな声が聞こえたような気がするだけだ。こんなの、幻聴に決まっている。
 そう思い込もうとするけれど、うまくいかない。なぜなら、その声の響きにも、言葉の内容にも、かすかに聞き覚えがあったからだ。
 どこで聞いたのかは、思い出せない。けれど、確かに聞いたことがある。
 ひどい寒気を覚えて震えが止まらなくなる。怯える気持ちにむち打って慌てて踵を返すと、私は急いでその場を後にした。

 息せき切って自宅に辿り着くと、私は早速父の書斎に向かった。なにか他のことでもしていないと、先程の声のことが頭を離れそうになかったからだ。
「父さん、いる?」
 何度ノックしても、返事はない。どうやら、父はまだ会社から帰っていないらしい。
 用もないのに入ってはいけないと父にいつも言われているのを思い出し、少し躊躇する。でも、用がないわけではない。知子ちゃんに頼まれた本を探すという、大義名分が私にはあるのだから。
 そう自分を勇気づけ、私は思いきって書斎のドアを開けた。

 父の書斎は、壁という壁が作り付けの書棚になっており、それらがすべて本で埋めつくされている。元々は祖父が使っていたもので、祖父の蔵書もそのまま残されているから、本の量は半端ではない。書棚に入りきらない書物がそこここに山積みされているし、壁際に置かれた片袖の書斎机の上にも、本の山が築かれている。
 蔵書の多くは経営や経済に関する物で、文学部生である私には縁のない物がほとんどだ。それでも、中には哲学や社会学の範疇に属する書物もあったりして、私もレポートを書くときなど、それらの本のお世話になることがある。知子ちゃんが必要としている本も、確かその辺りにあったはずだ。
 鞄を椅子の上に置くと、私はすぐさま本の探索を始めた。
 お目当ての本は、程なく見つかった。ドアから見て左手の書棚の、ぎりぎり手が届くかどうかという高さの棚に、無造作に並べられていたのだ。
 椅子を持ってきて踏み台にするべきかとも思ったけれど、結局それは止めにした。背伸びをすればなんとか取れそうだったし、書斎の椅子は重くて、運ぶだけでも一苦労だからだ。
 下の段の棚板に置いた左手に体重をかけ、つま先立って右手を伸ばす。本の背の上部にかろうじて指がかかったのを確認し、ゆっくりと本を引き出す。数センチほど出てきたところで本の上部をつかみ、棚から一気に抜き取る。その拍子に、隣に並んでいた本が耳の横をかすめて床に落ちていった。
 こんなにぎゅうぎゅうに本を詰めるからだ。もう少し余裕を持たせておけばいいのに、と思うけれど、これだけ大量の本がある以上、なかなかそうもいかないのだろう。
 落とした本を拾おうとして、その傍らに白い紙のような物が落ちていることに気づく。この部屋に入ったときにはなかったはずだから、おそらく本の間に挟んであったものが落下の弾みで飛び出してしまったのだろう。
 拾いあげてはじめて、私はそれが紙ではなく写真だったことに気づいた。裏側を上にして落ちたせいで、写真とは分からなかったのだ。
 拾った写真を何気なく裏返し──私は息を呑んだ。年月を経て色褪せたその写真には、仄暗い木立を背景に三人の人物が写っていた。一組の男女と、女の子。
 真ん中にいる小学生くらいの女の子、これはきっと私だろう。ということは、十年程前の写真ということになる。写真の中の私は、困ったような表情を浮かべてこちらを見つめている。
 問題は、その後ろに写る男女だ。女性の方は、今の私とよく似た顔をしている。けれど、表情や髪型などが与える印象は私よりもずっと華やかだ。年齢は、三十歳代前半といったところだろうか。
 そして、その隣に立つ男。女と同年代に見受けられるその男は、茶髪で派手な服装をしている。見るからに、軽薄そうな男。しかも、私の嫌いな黄色いセルフレームの……眼鏡……。

 不意に、視界がぐらりと揺れた。突然の眩暈に、思わず書棚にすがりつく。
 次に、寒気が私を襲う。そして、激しい頭痛。頭が割れそう。気持ち悪い。
 ──早咲。早咲ちゃん。
 頭の中に、誰かの声が響く。いつかどこかで聞いた声。……そうだ、さっき森の傍で聞いた声だ。
 でも──もっと前にも聞いたことがある。何度も何度も私を呼ぶ、この女の声を。
 頭痛がさらに激しさを増す。心臓が激しく波打ち、身体が震える。胸が苦しくて、息ができない。
 もはや立っていることもできなくなり、その場に崩れ落ちる。床に倒れ込んだ私の脳裏に、ある情景が浮かんだ。

 満面に笑みをたたえた美しい女性。私は必死でその腰にしがみつく。邪険に振り払われる私。
「やめて──やめて!」
 幼い私が泣き叫ぶ。けれど、その願いは聞き入れられず、彼女は無情にもその手を振り上げ──。

「……やめて、お母さん!」
 そう叫んだ瞬間、頭の中で何かが音をたててはじけた。次いで、大量の記憶の断片が流れ込んでくる。映画のフラッシュバックのように、記憶の欠片たちはめまぐるしい勢いで再生され、徐々に繋ぎ合わされてゆく。やがて、それらはひとつの像を結び、そして──。

 私は、すべてを思い出した。


後編へ

莢果堂文庫
トップ