ねじれる(後編)前編




 それから数十分後、私は森に足を踏み入れていた。ついさっきまで、あれほど恐れていた場所。
 この森を避けていたのは、得体が知れなかったからだ。何か恐ろしいものがこの森に潜んでいるような気がして、怖かった。けれど、すべてを思い出した今となっては、恐れるものなど何もない。
 ぐねぐねと曲がりくねった仄暗い道を歩く。私の足取りに迷いは微塵もない。この道を、私は知っているからだ。
 十年前に母と二人で歩いた道筋を一人でたどりながら、私はその時のことを思い返していた。

「……この森の奥にはね、早咲、秘密が眠っているのよ」
 私の手を引いて歩きながら、母はそう言った。どういうことかと尋ねる私に、母は嫣然と微笑みかけた。
「この奥にはね、沼があるの。大きな大きな、底なしの沼よ。そこに一度沈んだ物は、決して浮かびあがってくることはないんですって。だから、その沼は数え切れないほどの秘密を飲み込んでいるの」

 進むにつれて、空気が少しずつ湿ってくるのを肌で感じる。多分、沼に近づいているからだろう。あの日母と訪れた、秘密を抱く沼に──。
 小径には下草が生い茂っていて、土の表面をほとんど覆い隠している。そのことから、ここに訪れる人などあまりないということがわかる。それはそうだろう。こんな薄気味の悪いところに好きこのんで来る者など、そういるものではない。いるとすれば、なにか後ろ暗いところのある人くらいだろう。そう、あの日の母のように。
 水の匂いが強くなり、沼が目の前に姿を現した。こここそが、あの日母の目指した場所──。
 思わず歩みを止めたその時、足元でパキリと何かが折れる音がした。足の感触からすると、小枝などよりもっと硬い物。
 ゆっくりと足を退かせ、下草を靴の爪先で掻き分けてみる。そこに現れたのは、古ぼけたセルフレームの眼鏡だった。表面は泥にまみれ、その色も今となっては定かではないけれど、おそらくかつては黄色だったのだと思われる。
 私はその眼鏡を足先で掘り起こすと、沼に向かって蹴落とした。軽い水音をたてて落ちた眼鏡は、すぐに水面を埋めつくす水草の中に姿を消した。あの日の母の言葉通り、二度と浮かびあがってくることはないだろう。そう思うと、自然と口許がほころぶ。
 さらに沼に近づき、沼の縁に立つ大きな樹の幹にそっと触れてみる。ごつごつとした木肌。私の目の高さには、大きな瘤。
 あの日のままだ。ここは、十年前と何も変わっていない。まるで、あの日のまま時が止まっているかのようだ。
 そんなわけはないのだけど。事実、私はもう九歳の子供ではないし、背もあれからかなり伸びた。あの頃の母の背に追いつくくらいに。
 それでも──変わらないと思ってしまうのは、私自身の気持ちがあの頃と変わっていないからだろうか。

 その時、背後で誰かの足音がした。慌ててやって来たのだろう、荒い息づかいも聞こえる。
 私はそちらへ顔を向け、そこにいる人物に微笑みかけた。
「随分早かったのね、父さん。──いえ、それとも俊介さんと呼ぶべきかしら」
 そこには私の父──さっきまで父と呼んでいた男、小澤俊介が立っていた。神経質そうなその顔には、苦渋に満ちた表情が浮かんでいる。
「早咲……ここに来たということは、何もかも思い出してしまったんだね」
「ええ、思い出したわ。あなたが私の実の父ではないということも、十年前にここで起きたことも、すべて」
 その言葉を聞いて、彼は悲しげに顔を曇らせた。
「そうか……。こんな日が来なければいいと思っていたんだが」
 彼は小さくため息をつくと、私をまっすぐに見つめた。
「こうなったからには仕方がない。なにもかもをお前に話そう。あの日起こったことも、そうなるに至った経緯も、すべて」
 私は静かに頷き、彼の話を促した。

「私たち──私と美咲は、お前の祖父の言いつけで一緒になった。そのことは、前にも話したね。
 私は、正直なところ嬉しかった。美咲に対してはかねてから好意を持っていたし、跡継ぎに選ばれたことも誇らしかった。──もっとも、美咲の方はそうではなかったようだが」
 一旦言葉を切ると、彼は自嘲の笑いを浮かべた。
「彼女の目には、私は社長の言いなりになって結婚を決めた情けない男と映ったらしい。実際、面と向かって言われたよ。『なんてつまらない男!』ってね。
 それでも、私は気にしなかった。頑なな彼女の気持ちも、一緒に暮らすうちにだんだん変わっていくだろうと考えていたんだ。
 翌年にはお前が生まれて、これでやっと本物の夫婦になれたのだと思った。家族三人、これから幸せに暮らしていけるのだと。けれど、その考えは甘かったとやがて思い知らされることになる」
 彼は視線を沼の方に向けた。その横顔は、どこか寂しそうに見える。
「十年目の結婚記念日。私はいつもより早い時間に帰宅した。美咲へのプレゼントと、十年物のワインを片手にね。そんな私を迎えたのは、一通の手紙だった。『さようなら』とたった一言書かれたその手紙には、一枚の写真がそえられていたんだ」
 そう言うと、彼はスーツの内ポケットから写真を取り出した。私のいる位置からはよく見えないが、それでも察しは付く。彼が手にしているのは、私が先程書斎で見つけたあの写真だった。
「お前と美咲と、見知らぬ男。その三人が家族のように写る写真……。私には見せたことのない笑顔を浮かべた写真の中の美咲を見て、私は確信した。彼女は、この男と逃げるつもりなのだと。私は慌てて家を飛び出し、この場所へ向かった。写真の背景に写る、この森へと」
 私も憶えている。あの日も、この男は息せき切ってここにやってきた。それを見て、幼い日の私はほっとしたのだ。この男が、私を迎えに来てくれたのだと思って。
「私の姿を認めると、美咲は嘲笑を浴びせかけた。あの男も美咲の隣で笑っていた。早咲、お前だけは違った。お前は、救いを求めるような目で私を見た。その時、私は知ったんだ。美咲は、お前も連れて行くつもりなのだと」
 そう。母は私も連れて行こうとした。私は嫌だったのに。私は、この男の傍にいたかったのに。
「そうと分かった瞬間、血の気が引く思いがした。美咲は、仕方がない。元々私のことを嫌っていたのだ。美咲が出ていくのは仕方がない。だが、お前は……早咲、お前だけは手放したくなかった。だから私は、恥を忍び、プライドもかなぐり捨てて二人に頭を下げたんだ。お前だけは、娘だけは奪わないでくれと」
 私は、嬉しかったのだ。この男に必要とされたことが、たまらなく嬉しかった。けれど、母はそんな私たちの思いさえも踏みにじったのだ。
「美咲はそれを聞いて、せせら笑った。『あなたに娘などいない』と。その言葉の意味に気付いたとき、私は愕然とした。美咲は、最初から私を裏切っていたんだ。他の男との間に産まれたお前を私の子供と偽り、その嘘を信じて疑わない私の愚かさを馬鹿にして笑っていたんだ」
 愕然として立ちすくむこの男に、あの日の私は駆け寄ろうとした。けれど、すぐに母の手によって引き戻された。
「呆然とする私に向かって、あの男が吐き捨てるようにこう言った。『分かったら、とっとと帰れよ。間抜けな寝取られ男はよ』──それを聞いた途端、頭の中が真っ白になって……その後のことは、よく覚えていない。途中で、お前の悲鳴を聞いたような気もするが、それも定かではなく……。
 気づいたときには、あの男が倒れていた。胸にナイフが刺さった状態で。美咲も、その傍で頭から血を流して倒れていた。二人とも、既に息絶えていることは明らかだった。
 我に返った私は、急いでお前の姿を探した。お前は、近くの草むらに座り込んでいた。目の前で起きた出来事が余程ショックだったのだろう、その視線は下草の上を虚ろに彷徨っていた。
 私は、二人の亡骸を沼に沈めると、お前に言いきかせた。『早咲、いい子だからこの事は忘れてしまうんだ。お前はなにも見なかった。いいね?』お前は、黙って頷いた。そして、家に連れ帰った時には、お前はそれ以前の記憶を失ってしまっていた──」

 長い話を終え、彼は深い吐息をもらした。
「これが、あの日起きた出来事のすべてだ。長い間黙っていて、すまなかった」
 悄然と頭を垂れる彼に向かって、私は静かに問いかける。
「一つ、聞いてもかまわない?」
「ああ、かまわないよ。今さら隠し立てをしても仕方がないからね」
「私に対して必要以上に干渉したのは、どうして? 私がこの事を思い出したりしないように?」
 その問いに対し、彼は大きく顔を歪めた。
「……それもある。だが、それ以上に……」
 彼は視線を足元に落とすと、薄く笑った。
「お前を、失いたくなかったんだ。お前を、他の誰にも取られたくなかった。だから、できる限り家の中に閉じ込めて、他の男との接触を避けた。……馬鹿な話だ」

 そう言って彼は肩をおとした。それを見る私の唇に、笑みが浮かぶ。
「……良かった」
 知らずこぼれた呟きに、彼が反応し聞き咎める。
「何を言っているんだ? 私はお前の両親を殺したんだぞ? いい事など何ひとつないだろう」
 私は黙って彼を見つめた。彼は私の視線を避け、目をそらす。
「……そうか。人殺しの私と血の繋がりがないことが分かったからか。確かに、それだけはお前にとって幸いだったな」
「──違うわ」
 私の言葉に、彼は怪訝そうに顔をしかめる。
「では、一体何が良かったと言うんだ?」
「それはね」
 私は彼に歩み寄ると、その両手を取りそっと握りしめた。
「好きな男が、私のことを愛してくれていると分かったからよ」

 彼の目に、狼狽の色が浮かんだ。
「な……にを……。私は、お前の父親で──」
「でも、血は繋がってないわ。あなたがそう言ったのよ」
「し、しかし……私は人殺しなんだぞ? これから警察に行かなければ……」
「駄目よ」
 私から離れようとする彼の手を、ぐいと引き寄せる。
「父も母もなくした私には、もうあなたしかいないのよ。……どこにも行かせない。私を一人にするなんて許さない」
 戸惑いを隠せない彼に向かって、私は微笑みかける。
「好きよ。愛しているわ。だから、ずっと私のそばにいて」
「早咲……」
 なおもなにか言おうとするその唇に人差し指を押しあて、その言葉を封じる。
「──黙って。喋りすぎる男は……嫌いよ」
 少し背伸びをし、男の唇を自分の唇でふさぐ。
 なにも言わせないように。そして、この男が、私だけを感じていられるように。
 やがて、ためらいがちに私の背中にまわされた手に力が込められるのを感じ、私は安堵する。

 男の腕に抱かれたまま、私は思いを巡らせる。
 誰にも言うつもりはないけれど、良いことは他にもあったのだ。
 この男が気づいていないということ。あの日、この場所で、私が果たした役割について。
 この男は、自分が二人を手に掛けたと思っている。思いこんでいる。でも、冷静に考えてみれば分かるはずだ。特に体格的に優れているとも言えないこの男が、私の両親を一度に殺すことなどできるはずがないのだ。二人対一人では、どう考えてもこの男の方が不利に決まっている。
 けれど。二人対二人ならば、話は違ってくる。それも、自分たちに刃向かうなどと思いもしなかった者が相手ならば。……例えば、自分たちの子供のような。
 そう。母を殺したのは、この男ではない。この私だ。

 この男が実の父親ではないと分かったのは、いつだっただろう。はっきりとは憶えていないけれど、物心付いたときには既に知っていたような気がする。母は、私にはその事実を隠そうとしていなかったからだ。
 実の父にも、何度も会ったことがある。あの写真の男だ。母は、密会の場にいつも私を連れて行った。
 軽薄そうで品のないその男を私はどうしても好きになれなかったけれど、それが自分の父親であるということに、さして抵抗は感じなかった。実の父親が別にいるということは、つまりこの男、小澤俊介と自分の間に血の繋がりがないということを意味するのだと知っていたからだ。
 私は、幼い頃からこの男が好きだった。父親としてではなく、一人の男として。
 だから、あの日──実の父親とこの男が争ったとき、私は迷わなかった。躊躇うことなく、この男を救おうとした。
 私は、母を止めようとしたのだ。あの時母は、父と一緒になってこの男を殺そうとしていた。おそらく、最初からそのつもりだったのだろうと思う。でなければ、そんなに都合良くナイフが出てくるはずがない。
 争う二人の背後に回った母は、その辺りに転がっていた石塊をこの男の頭上に振り下ろそうとしていた。私は母に取りすがった。お願いだからやめてと哀願した。
 けれど、私のその願いは聞き入れられず、私の手を乱暴に振りほどいた母は、再びその手を振り上げ──。そんな母を止めるため、私は彼女の体を力任せに突き飛ばした。
 殺すつもりなんてなかった。ただ、この男を守りたかっただけ。母のその手を振り下ろさせたくなかった、ただそれだけだったのに。
 よろけた母は、かなりの勢いで沼の縁の樹にぶつかり、驚愕の表情をその顔に浮かべたまま動かなくなった。
「……お母、さん?」
 そっと肩を揺すぶると、母の体はその場に崩れ落ちた。抱き起こした母の後頭部からは、血が流れていた。その樹の幹の、母がぶつかった辺りには大きな瘤があり、母の血で赤く濡れていた。
「お母さん……」
 母の亡骸を抱いたまま、私は呆然としていた。私にとって、決して良い母親ではなかったけれど、それでもたった一人の血を分けた母だったのだ。お腹を痛めて私を産み、曲がりなりにも私を育ててくれた人だ。
 そんな母を、故意にではないにせよ手に掛けてしまったという事実に、私は打ちひしがれていた。
 私たちに背を向けていたこの男は気付かなかった。けれど、父は気付いてしまった。
「……さき……!?」
 私の名を呼んだのか、それとも母の名を呼ぼうとしたのか、それは分からない。今となってはもう確かめる術もない。
 その声に私が顔を上げたとき、父は既にこの男の手にしたナイフで胸を貫かれていた。私たちに気をとられた隙に、この男にナイフを奪われたに違いなかった。
 私と母を見つめたまま、父は倒れていった。転倒したときの勢いで、父のかけていた眼鏡が外れ、どこかへ飛んでいくのを私は見た。
 私は慌てた。父のかけていた、黄色いセルフレームの眼鏡。あれをすぐに見つけなければ、とんでもないことになると思った。
 仮に二人の遺体をどこかに隠したとしても、あの眼鏡が誰かに発見されれば、今ここで起きたことが明るみに出てしまうかもしれない。そうなったら、私もこの男もお仕舞いだと思った。
 だから、私は草むらにしゃがみ込み、急いで下草に目を走らせた。父の眼鏡を探すために。
 けれど、その目的を達成することはできなかった。正気に返ったこの男が、すべてを忘れるよう言いきかせ、私を家に連れ帰ってしまったからだ。
 この男の言葉に従うため、私は記憶を封印した。それでも、黄色いセルフレームの眼鏡は危険、ということだけは意識下に残っていたのだろう。同じタイプの眼鏡を目にするたびに恐怖を感じていたのは、きっとそのせいだ。
 でも、その眼鏡も先程見つけて沼に沈めてしまった。もう、眼鏡に怯える必要など、どこにもない。

 私を抱きしめる男の顔をちらりと盗み見る。人を殺したという自責の念に苛まれ続けた、苦悩に満ちた男の顔。
 けれど、この男は殺されそうになったから抵抗しただけなのだ。そうしなければ、この男の方が殺されていた。あくまで、正当防衛の範囲内だ。だから、この男がそこまで懊悩する必要などないのだ。
 でも、私は違う。自分自身に危害が及ぶ虞など微塵もなかったのに、この男を救うために、人を殺した。それも、血の繋がった実の母親を。父が死んだのも母の死に気をとられたからであり、つきつめればそれも私のせいと言えなくもない。
 そう。本当の人殺しは、この男ではなく、私の方だ。

 いつか、この男は気づくだろうか。あの日私が犯した罪に。
 真実を知ったとき、この男はどうするのだろう。すべてを知っても、変わらず私を愛してくれるだろうか。それとも、実の両親を死なせた私を、恐れ、憎むのだろうか──。
 私は、男の胸に身を預け、そっと目を閉じた。
 ……そうなったら、そのときのことだ。今は、そんなことを考えなくていい。訪れるかどうかさえわからない未来に、今からおびえる必要などないのだ。
 今は、愛する男を手に入れた喜びだけを感じていれば、それでいい。
 この森では、なにもかもが、ねじれているのだから。記憶も、感情も、私たちの関係さえも。ねじれ、ゆがみ、絡み合い……私たち二人を封じ込め、からめとろうとする。
 ねじれる森に、私たちは捕らえられている。逃れることなど、決して出来はしない。
 だから。

 今はただ、秘密を抱いていよう。罪深い、この、ねじれる森で──。


ねじれる ─終─



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